国語教諭の呼び出しに応じて昼食後に職員室に向かい、実に完璧に礼儀正しく入室して教諭の机の横に立つなり、のんびりと言われた。
「芥川のことなんだがなあ」
跡部は不覚にも、はァ、などとつい答えてしまい、慌てて背筋に力を込め直すと、はいと訂正した。理由もわからず呼び出されて開口一番慈郎の名が出てくるとはさすがに予測しがたく、微かにひそめてしまった眉をもとに戻せなかったのは大目に見てもらいたい。
性格温厚、授業快適、試験ゆるゆる、の引き換えとばかりに毎時間の小テストと週一の読書感想文提出を売りにしている国語“永尾のおっちゃん”教諭は、だいぶ広くなった額を四本揃えた指の腹でてんてんと叩きながら、椅子に掛けたまま跡部を見上げた。
「どうしたもんかと思ってなあ」
「感想文の提出がまた遅れていますか。先週の分は昨日書き終えていたはずなので確認してみます。今週分も金曜までには」
ジローのやつ、と内心で舌打ちしながら跡部が思い当たる節を口にすると、永尾教諭はうんまあそれもあるんだけどなあと緩く首を捻り、目尻のしわを深くした。
「これなんだよねえ」
言いながら、雑多な机上に重ねられていた紙束のいちばん上の一枚を跡部に手渡す。見覚えのある、そして目を疑う紙面に跡部は思い切り頬を引きつらせる。膨大な量を放出してしまいそうになった溜め息は、自制心を総動員してどうにか飲み込んだ。
見覚えのあるのは藁半紙に印刷されたごく簡単な漢字の問題、今日の二限目に受けた国語の小テストだ。目を疑うのは氏名欄の芥川慈郎、の下に大きく走り書きされた2という赤数字。
二点。あり得ない。一点×十五問の十五点満点、漢字の読み書きをすべてあ〜おの五択で答えるという甘い問題でえげつない引っ掛けも皆無、平均点が満点に近いはずのテストだ。それを二問しか答えられないとはいったいどういう事態なのか。いっそ奇跡か?
自分の常識内には決して存在しない点数に跡部がしばし呆然としていると、永尾教諭の丸っこい指が解答欄を指し示した。
「あいつは何か悩みごとでもあるんじゃないのかねえ」
そんな上等なものはありませんと薄情極まりなく、けれど確信に満ちて即答しようとして危うく思い止まり、跡部は解答欄に注意を移す。……なんの冗談だ?
慈郎の書いた問一の答えは、あ。問二の答えは、と。問三の答えは、べ。問四はあ、問五はと、問六べ、問七以下略。跡部は一瞬本気で目眩を覚えた。な・に・を、やってくれてんだジロー!!
「跡部ね、ちょっと相談に乗ってやんなさい。芥川はおまえのこと頼りにしてるみたいだから」
なるほど永尾教諭はそう結論づけてしまったわけだ、跡部にとっては大迷惑。どうにか冷静を装って一礼し、跡部は職員室をあとにした。必要なら先生にもいつでも言ってくれなあ、と永尾教諭が相変わらずの悠長な口調で応援をくれたけれど、誓ってそんな必要は生じない。
限りなく大股で廊下を歩き、二段抜かしで階段を上がって教室に戻ってみれば窓際最後列の特等席にはムースポッキーの空き箱と食後の仮眠中の黄色い頭、飛び蹴りでもしてやろうかと跡部は思った。
「起きやがれジロー!」
怒鳴りながら足音荒く近づくと、慈郎の前の席で読書中(not文芸書)だった二つ向こうのクラスから遠征中の岳人が、何怒ってんだよハゲるぜ、と代わりに返事をした。
「てめえはさっさと出てけ、五分前だぞ」
「げー横暴。そんな権利あんのかよ」
「うるせぇ。遅刻は許さねぇからな」
「なんだよオカンかよ。そういうことはまずジローに言えよな、この遅刻魔人に」
口の減らない、ついでにまた漫画雑誌のページをめくり始めて撤収する気配もない岳人に、跡部はそれ以上言葉を継ぐ気が失せる。もはやすべてがどうでもよくなって、けれど根っからの生真面目さと強固な責任感が邪魔をして完全放置は所詮無理な話、せめて放課後まで引き延ばさせてくれとらしくなく逃げを打ってチビっ子コンビから離れようとしたとき、岳人が突然大声を上げた。
「やっべ、次教室移動じゃん!」
椅子を蹴って立ち上がるが早いか、超絶に通路をシカトして次々に机を跳び越え、あっという間に廊下へ姿を消した。その華麗かつ相当危険(主に周囲が)なアクロバティックジャンプにクラスメートたちがどよめいたり拍手を送ったりする中、跡部はひとり本気で頭痛を覚えた。どいつもこいつも無駄に俺様を疲れさせんじゃねぇよと眉間を押さえる一方で、つまり自分の神経は慈郎と岳人ごときに削られてしまう脆弱さ不甲斐なさであるのだと知って憮然としつつ、席に戻ろうとした、ら、
「エロ」
とものすごく明瞭に言って、慈郎が起きた。机に張りついていた上半身を起こし、声とは裏腹の寝ぼけ眼のまま前方を見つめて、あれ、とばかりに頼りなく首を傾げる。
「いまここにすげーエロい跡部が」
「いねぇよ」
跡部は容赦なく慈郎の頭をはたいた。慈郎は驚いたように大きく肩をそびやかして素早く机の横に立つ跡部を見、途端に失礼極まりない勢いで落胆顔になった。
「なんで服着てんの」
「そういう疑問を平然とわかせるおまえの頭を疑うぜ俺は」
「むずかしいこと言われてもわかんない」
「どこが難しいんだよ、あーん?」
「続き見るから起こさないで絶対!」
普段決して見せることのない切実な顔と声で訴えてふたたび机に伏せようとした慈郎の襟首を、跡部はこの上ない迅速さでつかんでそのまま力任せに引っ張り上げた。
「ぐぇ、死ぬ死ぬ死ぬ!」
「寝るな。夢に俺を登場させんな。テストの答えに俺の名前を書くな!」
怒鳴って手を離すと、慈郎は勢いよく机に落っこちて背を丸め、わざとらしく悲愴に咳き込んで見せたあと、そろりと上目使いに跡部を窺った。冷たく睨み下ろしてやったが効果ゼロ、悪びれる素振りもなくピカピカの笑顔を見せやがる。いつものように寝ぼけたふりや忘れたふりでごまかす気はないようだが、素直であってもタチが悪いのが慈郎だ。
「だって眠かったんだもん」
「その万年睡魔と俺の名前がどう関係あんだよ。どういう構造してやがるおまえの頭は」
「頭はおかしいです」
ごく真面目な顔になり、慈郎は大きな瞳の無作法な視線でまっすぐに跡部を突き刺して、両手で口元を覆う。
「だって跡部のことしか考えてねーし」
チ、と跡部は舌を打って強く奥歯を噛みしめた。そうしないときっと頬が緩んでしまう。ちょうど鳴り始めた本鈴をよしとして慈郎に背を向けると、うしろからぎゅうと薬指と小指をつかまれた。
「俺、跡部がいいの」
密やかな声で世界の約束みたいなふりでそんな願いを囁く、だからタチが悪いというんだ。後ろ手に指を握り返して肩越しに振り返り、わかってると低く言ってやれば慈郎は満足げにまた笑った。指は離れていったけれど残る体温を逃したくなくて跡部はもう一度緩くてのひらを閉じ、自分の席へ戻る。当たり前に机に伏せた慈郎が、頬の下敷きにした手を同じく握りしめてフフとたまらないように声を漏らしたことは、もちろん知らない。
2005.2.28
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