破
 悠々

 

 

 

 結構なんでも手に入れているような言われ方を、わりとする。そんなうすら寒い称賛だか薄っぺらい嫉妬だかに関心はないので慈郎は寝たふりをして、じき簡単に本当の眠りに落ちる。
 人の目に映る芥川慈郎。顔、悪くない。運動神経、そこそこ。テニス、すげぇ(幽霊部員みたいなくせして)。頭、悪い。けど、優秀なノートのレンタル元や家庭教師候補には事欠かず(跡部滝忍足エトセトラ)最終的には必ず赤点を免れる要領の良さ。
 実際自分は恵まれているのだと、慈郎はいやというほど自覚している。そういうふうに生み育ててくれた親、友人、環境、テニス、すべてにちゃんと感謝している。わかってる、これ以上など望むべくもない。
 だけどさ。
(ほしいもんなんて、ひとつしかねーのに)
 五限目の予鈴が鳴り響く校舎の廊下を、それぞれの教室へと急ぐ生徒たちの流れにひとり逆らって歩きながら、慈郎は胸のうちでそうこぼした。いつの頃からか寝ても覚めても思うのはそればかりで、自分の貪欲さと図々しさに呆れ果て、溜め息すらもとうに打ち止めの日々。
 この上まだ何かを得ようだなんて、きっとばちが当たる。つーか、もうぜんぜん当たってるし。どうしてもほしいもんと、絶対手に入らないもんがイコールだし。神様のいじめだ。
「ジロ?」
 ふいに頭上で名を呼ばれ、慈郎は伏せていた目を上げた。無駄に視力を偽った胡散臭い眼鏡が、無駄に育った長身で慈郎の進路を塞いでいた。あと一歩でも進んでいたら確実にぶつかっている。
「なんや、ぼっとしてからに。ほんま器用やな」
 薄く笑う忍足の言葉の裏を敏感に読んで、慈郎は不快感もあらわに頬を膨らませた。ストレートな物言いをよしとせず、そのくせ人の反応を窺う素振りもなくゆるんだ言葉を緩慢に垂れ流すばかりの無責任なこの男は、ときにひどく慈郎の癇に障った。
「寝てねーよ」
「ほな悩みごとか」
 珍しな、という言外の響きに、慈郎はますます不愉快を募らせる。むかつくなこのメガネ丸。
「別に。五限終わるまでどこで寝てよっかなって考えてただけ」
「さぼるん?」
「だって古典なんだよ。ラリホーマだよ。なのにせんせー寝てんのぜんぜん見逃してくんないしうざい」
「跡部に怒られても知らんで」
 ごく自然にその名前を持ち出した忍足もうざい、いっそ憎いと慈郎は思った。メガネかち割んぞと凄みたいところだが、忍足相手に感情的になるのも癪なので抑えた。のれんに腕押しっていうんだ、確か。忍足なんて喧嘩すらできない。大人面しやがって。
 忍足は涼しい顔で慈郎の激しかけた視線を受け流すと、肩越しに振り返って、廊下の後方にある階段のほうを窺った。生徒の大半が教室に引っ込み、あけ放されたドアから漏れ出す話し声で騒がしさは昼休み中とそう変わらないものの、廊下には人影はもうまばらだ。教師が階段を上がってくる気配はまだない。
「屋上行き」
 慈郎に目を戻した忍足が、薄笑いの失せたいつも通りの淡々とした表情で告げた。
「天気ええさかいぬくいで。風邪ひかんですむやろ」
 もう五月だというのに冷たい雨の降った先日、部室のソファで腹を出して眠りこけていた慈郎が腹痛を起こした上に咳くしゃみ鼻水のオンパレードになったことを心配してか、そんな助言を寄越す忍足に、慈郎は素直に頷いた。本当は畳目当てに茶道部の部室にでも忍び込もうと企んでいたのだが、過去に数回見つかって厳重注意を受けているブラックリスト入りの身でもあるし、晴れているなら屋上も悪くない。床もベンチも硬くて、起きたときに身体がぎしぎしするのが少々難点ではあるけれど。
 慈郎は忍足の横をすり抜けて階段へ向かった。上履きの踵を履き潰している慈郎とは違って、スマートに整った響き方をする忍足の足音が遠ざかるのを意識半分に耳たぶのあたりで聞く。
 階段の一段目に足をかけたところで本鈴が鳴った。慈郎は二段抜かしで一気に階段を駆け上がると、薄暗い踊り場の奥の重たい鉄の扉を押しあけて、よく晴れた青空の下に出た。
 光の強さに目を細め、麗らかな空気を肺いっぱいに吸い込んでまずしたことは、クソメガネ! という罵声をこらえることだった。知っていて、これを知っていて慈郎を屋上に誘導したのなら悪質に過ぎる。そして、知らなかったはずがないんだ、あのクソメガネ!
 跡部がいた。一見無人の様相を呈する屋上の左手の隅、フェンス沿いに設置された平たい石造りのベンチの上に仰向けに寝転がって、いた。
 信じらんねー、と目眩を覚えるような思いで、慈郎はあけたままの屋上の扉に背を預ける。陽射しの乏しい踊り場内に面していた鋼鉄の表面は制服のシャツ越しにもじんと冷たく、慈郎の腕に一瞬の鳥肌を生んだ。
 信じらんねー跡部のくせに。もうチャイム鳴ったのに授業始まってんのに気づかねーで寝てるなんてそれじゃ俺じゃん、跡部のくせに。バカだなあと思ったりもしかして具合悪いのかなと心配になったり忍足はあとで半殺すと誓ったりして、ただそれだけで足には何ひとつ指令を出した覚えはないのに、気づけば慈郎は跡部にどんどん近づいていた。俺はS極で跡部はN極なのかもと思った。
 真上から顔を覗き込むと、跡部は、天下の跡部景吾様のくせに口を半開きにしてきめの美しいまぶたをさらして本気でぐっすり眠り込んでいて、これ夢じゃねーのと慈郎は自分の頬をつねってみたくなった、けど、本当に夢で覚めてしまったらいやなのでやらない。
 跡部は腹の上に右手をのせていて、その下には練習メニューだとか他校との練習試合予定表だとか休日の校内施設の使用申請書だとかが何枚も挟まっていて、ゆるやかな風にひらひらと四隅をはためかせている。手の下から抜け落ちてベンチの横腹に風で張りついていた一枚を慈郎は拾い、すこし眺めてから無造作に丸めて床に投げ捨てた。
 きっとあとで怒られるけれど、こういうもののせいで跡部がとても疲れていてけれど人に弱音を吐かず助けを求めもしない彼だからいまこんなところで不本意だろうに居眠りなんかしているのだったら、大事な書類の一枚や二枚や百枚、慈郎は簡単に丸めるし破るし燃やす。それで跡部の負担が増えることも知っている。
 俺が本当になんでも持っているのなら、せめて跡部の役に立つ優等生であればよかったのに、と、絶対に思わない自分の薄情さを慈郎はすこしだけなじりたくなった。跡部に頼って迷惑をかけて許してもらって溜め息をつかせてあきらめたように優しい目を向けてもらうのが好きだという臆面もない本音。身勝手が美徳であったなら、慈郎以上の偉人はいない。
 慈郎はベンチの脇に膝をつき、屈み込んで跡部のまぶたにキスをした。
 オメェだけを望んでんだよ。
 起きない跡部の唇に、慈郎は当然の顔をしてまた口づける。息苦しさを感じたのか跡部が低く唸ったけれど無視をして、その声すらうっとりと飲み込んでやわらかい唇を塞ぐ。抱えるように押さえつけた肩が動く気配があった。あ、跡部起きる。
 甘えて許されて俺だけが嬉しくて苦しいこんな関係は簡単に壊れるんだ壊せるんだ。
 慈郎は跡部の顎をつかみ、躊躇なく、ひらいた唇のあいだに舌を入れる。
 怒れ。壊れろ。

 

 

 2005.2.21
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