を殺していくばくか

 

 

 

 てのひらの下に脈打つ慈郎の首筋の温度は相も変わらず高い、猫のように、真夏のガードレールのように。夏期休業中の校舎はあまりにも光に満ちて平穏だ、ついさっきまでの氷帝シュプレヒコールが嘘のように、降ってわいた全国出場は夢のように。
 セミの鳴くのを右、慈郎の寝息を左の耳に聞いて、跡部は教室の片隅でじっと息を殺す。野球部の金属バットが白球を弾く音が窓辺まで飛来して、そこで唐突に世界を逸脱したように不可解に完全に消えた、ような気がした。強すぎる夏の陽射しが室内を真白く塗り潰し、壁の時計の文字盤も例外ではなく白く焼けて数字も針も虫食いじみた黒い汚れにしか見えず、いまはいつなのか。黒板の上のスピーカーが果てない暑さと光に堪えかねてないはずの本物の口をひらき歯を剥いて悲鳴を吐く、と思った。
 窓際の机に突っ伏して顔を外ではなく跡部へ向けて眠る慈郎は、さしもの彼でも暑いのか、首筋を包む跡部のてのひらのせいか、時折ううと唸って眉根を寄せる。てのひらはとうに汗ばんで不快でないと言えばひとたまりもなく嘘発見器の餌食だが、跡部は慈郎の脈を追い続けた。
 慈郎の生死を確かめようとまったく同じ行為をしたことが過去にあった、いまは違う。あれは冬で、慈郎の寝息は細くコートで分厚くなった背中の上下は肉眼では見定めようもなく睫の揺れることもまぶたの震えることも、なく、死んでいるはずなどないのに不安に喉を干涸びさせて跡部は幾重にも巻かれたマフラーの下に無理に手を差し込んで彼の脈を探ったのだった。
 しつこく唸るがしぶとく起きない慈郎を前にそんなことを思い出し、自分の脳からはいま現実味が削除されているらしいと跡部は思った。失って、踏ん切りをつけたはずの道を、ふたたび与えられてしまった。朗報と速断できなかったプライドを誇るべきなのか嘲笑うべきなのか、それすらもまだ判断できずにいる。
 あれだけニコニコ笑ってぴょこぴょこ跳びはねて喜んだくせに、騒ぎが収まるとあっという間にコートを抜け出してこんなところで眠ってしまった慈郎の髪に、跡部はゆっくり顔を寄せる。慈郎の家の側溝から絶えずもくもくと上がっている不思議な匂いのする湯気、と同じあたたかな香りを撒く癖毛に、紛れもない現実を知らされた気がしておかしくなった。クリーニング屋と全国大会を一本の糸でつなぐ慈郎。
 軽く髪に口づけて顔を上げたとき、机の端に落書きを見つけた。慈郎特有ののたくった字で薄い鉛筆の線で、あとべ、と書いてあった。その横には「てづか」の文字。てづかの下には「ふじ」。そしてあとべの下には、「おれ」。
 跡部は目を眇めた。慈郎の汚い字で書きつけられたそのオーダーに、わずかに心拍数が上がる。
「あとべ」と「ふじ」の上に、おそらく黄色の蛍光マーカーだろう天板の褐色に溶けて見づらく変色した星のマークが、不格好に書き重ねられていた。
 跡部が星に触れたとき、前触れなく慈郎が頭を起こした。あまり急だったので、慈郎の首に置かれていた跡部の手は無抵抗に机の上に落ちた。慈郎は半眼のまま一度まばたきをして、普段のように跡部の両頬を押さえつけるでも首を抱きしめて耳の後ろの髪をつかむでもなく、ただ上半身を乗り出して跡部にキスをした。
「よかったね」
「あん?」
「全国」
 短く言葉を切る慈郎の顔は眠る前とはまるで様相が違い、もはやうっすらとも笑わない。跡部は返事をためらい、慈郎を見つめたまま机の上の星を指で探った。慈郎の唇がまた近づく。
「心配だったんだよ」
 二度目のキス、というより犬猫のようにぺろりと跡部の唇を舐めて、慈郎は重たげなまぶたをまたまばたかせた。
「だって跡部あんとき笑わなかったから。自分であいついじめたくせにさ。後悔してんの。バカみたい」
 心配だったんだよ、と慈郎はくり返した。ちっともそんな顔はせずに。笑わなかった? そんなことはない、慈郎が見ていなかっただけ目を覚ましていなかっただけ。
「バーカ。青学の手塚に勝って後悔するやつがいるかよ」
 それは誓って本音だったのにやけに空々しく響き、発声だけがいやというほど明瞭で、跡部は舌打ちしたくなった。室内を跳ね回る夏の光が視界だけでなく言葉をも眩ませているようだ、キラキラと砕いてただ曖昧に、痛みにも似た屑星にして撒き散らす。
 そう、じゃあよかったねと慈郎はやる気なく言って、また机に突っ伏した。まぶたは潔く閉じられものの一秒で寝息を立て始めるその姿に跡部はいつものことながら呆れ果て、
「おい寝るんじゃねぇよ、いい加減、」
 慈郎の肩をつかんで揺さぶりかけたが、手も声も、意思に反して止まってしまった。絶え間ないセミの鳴き声が耳に入る端からキンと金属質に変じて耳鳴りのように、これはなんだ、眼球の裏が、鼻の奥が真っ赤に熱い。
 そのとき、がらがらびしゃんと不必要に派手な音を立てて教室のドアがあいた。跡部は驚いて、振り返ると同時に立ち上がる。膝をぶつけて机が揺れたが慈郎が動く気配はない、戸口に現れた宍戸を見た、自分の瞳が、薄膜のように水気を帯びていたのは錯覚。錯覚だ。
「ジロー探すのにどんだけかかってんだよ。早くコートこいよみんな待ってんだぜ」
「いいから先に練習させとけ」
 反射的に何度もまばたきをしながら答えると、意識したわけではないもののひどく迷惑げな物言いになってしまった。宍戸は露骨に、自分のほうがよほど迷惑だと言いたげに精悍な表情を歪める。
「んなもんとっくに始めてるっつーの。おまえの仕切りを待ってんだっつってんだよ、あ・と・べ・ぶ・ちょう!」
「……わかった、いま行く」
 普段なら間違いなく癇に障っただろう宍戸の言い草にもいまは応酬する気が起きず、跡部は目を伏せて短く息をついた。机の上にだらしなく投げ出され、手首から先が空中にはみ出している慈郎の腕を取り、起きろと低く声をかけたが、起きるはずもない。ドアの外に立ったまま、自分の教室でもあるのに中には一歩も踏み入ろうとしない宍戸が、帽子を取って乱暴に頭を掻いた。
「何やってんだよ、おまえら」
 跡部は視線を尖らせて宍戸を睨んだが、彼のそれは揶揄でも難詰でもないようで、ただ困惑したような痛んだような顔のしかめ方でこちらを見ている。
「おまえら見てっとさ」
 跡部の答えを待つことなく宍戸は続け、けれど途中で口を閉ざした。なんだよ、と跡部は低く問う。慈郎の腕をつかんだままのてのひらにはまた汗をかいている、熱いのは慈郎の体温か自分の肌か。
 宍戸は口の片端を持ち上げ、らしくなくはっきりしない不器用な笑みを浮かべた。溜め息をつくのに似ていた。帽子を被り直すと、ドアに片腕をついて大きく上半身を教室内に乗り出させ、榊そっくりのポーズで勢いよく跡部を指差した。
「テニスしろ、テニス!」
 そう言ったときにはすでに宍戸の顔はからかい以外の何ものでもない生意気な笑みに満ちていて、不愉快なんだよてめえと跡部が毒突く隙もなくさっさと廊下に消えている。テニスシューズのまま校内に上がり込んだらしく高く鳴る足音にかぶさり、次は勝てよジロー! と馬鹿でかい叱咤が飛んできて、その途端慈郎がガバと身体を起こし、うい! と答えて跡部を心底びびらせた。
「てめ、起きてたのかよ!」
「うん、いま起きた?」
 どちらともつかない疑問形のいい加減な答え方をして、慈郎は大きく伸びをする。さーれんしゅーれんしゅー、とか白々しく言いながら席を立った慈郎の机の上には、褪せた色の歪んだ光らない星が二つ。薄く汗ばんだてのひらを、跡部は自分の名の上にかかる星に当て、削り取るように強くこすった。もういらない。これからもう一度、手に入れる。

 

 

 2005.2.21
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