魔法使い
たぶん
弟子   

      

      

      

 罠だ。正真正銘掛け値なくありえないほどわかりやすく罠だ。なんでそんなもんに引っかかっちまってんだ俺は。と、頭の片隅がズキズキと脈打つのを懸命に無視しながら、跡部は我ながら呆れた。
 夏のかんかん照りでも冬のぼた雪の日でも、氷帝学園のほど近くにある某全国チェーンのアイスクリームショップの前で慈郎の足が止まるのは珍しくない。ねーおしたり将来ちゃんと医者んなってにんげんが冬眠できるくすり開発してね、と非常識かつ的外れな頼みごとをアホほど本気の目でする極度の寒がりのくせに、慈郎は冬でもアイスを食べたがる。なんてバランスの悪いこども。
 だからその慈郎が、夏休み最終日の本日夕方、アイスクリームショップの前でぴたと歩みを止め、当然気にも留めず行き過ぎようとした跡部のシャツの背中をがしとつかんだのも、別に珍しいことではなかった。多分に鬱陶しくはあるけれど。
「跡部、アイス」「それがどうした」「アイス屋さん」「見りゃわかる」「たべる」「好きにしろよ」「跡部もたべる」と、眠たげな顔で、まるで片言の外国人のように単語だけでしゃべる慈郎になかば無理やり店内に連れ込まれ、途端に目が覚めたんだか日本人に戻ったんだか無駄に回り始める口に「ダブルにしなねシングルじゃつまんねーからそんでいっこはチョコミントねちょーうまいから!」と強制されて、多々思うところはあったものの気づけばしっかり会計待ちの列に巻き込まれていてレジの前に押し出され、うしろに並ぶ客に迷惑をかけてはならないとマナーを重んじる性分が即働いて跡部がついオーダーをし、たその横からすかさず慈郎がニコニコと「チョコミントとこの名前ながいオレンジのダブルコーン! レギュラーでおねがいしまーす」とつけ足した。そして何食わぬ顔で告白してくださるわけだ、「俺いま百四十円しかもってねーから」。
 てめえざけんなと怒鳴りたいのをこらえるだけの分別はあったが、というかなくしかけたが店員が慈郎に負けない超スマイルで「お会計ご一緒でよろしいですかあー?」と尋ねてくるのでどうにか平静を装って、別でと答えようとしたところへふたたび慈郎の先手必勝、「よろしいでーす!」。首が回るほどぶん殴ってやりてえ、と跡部は約○・一秒、本気の殺意を覚えた。
 が、こういうとき、さっさと自分の分だけ支払ってとんずらするという要領のよさを持たない跡部家の景吾お坊ちゃまなので、結局まんまと二人分の出費を被るはめになる。慈郎は慈郎で、混み合う狭い店内の隅におまけみたいに設けられた小さなカウンター席からカップルが立ち上がったのに目ざとく気づき、ちょこまかと椅子の確保にいってしまう。
「俺の分もちゃんともらってきてね!」
 首尾よくものにした席に誇らしげに座りながら、慈郎が大声で言わずもがなのことを叫んで寄越したので、跡部のうしろで受け取りカウンターに並んでいた若い女の二人連れからくすくすと笑い声が上がった。
 慈郎のせいで自分まで不必要に目立って恥をかくという堪えがたい、けれどその実すでにあまりにも慣らされてしまっている現状に、跡部は怒気のありったけを込めて慈郎を睨む。マッハで目を逸らし、カウンターに両手で頬杖をついて高い椅子からぶら下げた足をこどものように遊ばせる慈郎を、法律が許せば、そしてここ数日間、毎日朝から学校の図書室に缶詰めで跡部の監督のもとぶーぶー文句やめそめそ泣きごとを垂れながらも夏休みの宿題に励み、ついさっきようやくすべてに打ち勝ったそれなりにはがんばったと認めてやれる身でなければ、とりあえず首のひとつも絞めてやりたいところだ。
 仕方なく二人分のアイスを受け取って跡部がカウンター席に着くと、慈郎は礼もそこそこに、自分のオーダーしたダブルコーンをさらってゆく。幸せそうな顔であーんと大きくひと口かぶりついてから、跡部を見てすこし目を細めた。
「なんでカップなの」
「手が汚れねえからだよ」
「あー跡部こないだガリガリくん食うのすげーへただったよね」
「食い方の問題じゃねえ、このクソ暑ィのに外であんなもん食ってりゃ溶けて当然だろうが」
「だからそれがへたなんだって」
 くっくと笑われ、言われてみれば確かにあのとき慈郎も宍戸も岳人も、真昼のコンビニの外のベンチであっという間にやわらかくなってゆくふざけた名称のアイスキャンデーから滴こそアスファルトに垂らしてはいたが、塊をごっそり落としたり手をベタベタにしたりはしていなかったと思い出し(しかし慈郎の口の周りは似たような惨状だった)、跡部は非常におもしろくない。二度と食うかあんなもん。
「カップなんて食えねーじゃん。ぜったいコーンのがお得なのに」
「人の金で食っといてうるせえぞてめえ」
 跡部が語気を凄ませてもまるで意に介さないふうに、慈郎はダブルコーンの上の段のオレンジソルベをもしゃもしゃと味わっている。ものを食っている最中の彼とまともな会話を試みようなどハムスター相手に六法を説くレベルの奇行、そこから生まれるのは時間と言葉の浪費のみ。
 跡部は苦々しく表情を歪め、慈郎から視線をはずした。カウンター席の前の壁は全面ガラス張りになっていて、外の通りがよく見渡せる。夏休み最終日とあってか人通りは多く、ぼんやりとその流れを眺めるうち、跡部は妙に人々の視線を集めている気がして眉をひそめた。
 慈郎が何かやらかしているのかと、たとえばこのあいだみたいに口の周りを赤ん坊並みに汚しているとか、慌てて目を戻したが、彼は無心にアイスを頬ばっているだけでその様子はひどくこどもっぽくはあるものの、別段目を引くとは思えない。疑問を濃くしつつ背後を振り返ると、会計待ちをしている若いカップルとあからさまに目が合った。なんだ? 跡部が眉間のしわに不快感をプラスするが早いか、
「すでにさいこー目立ってるのでえ、きょろきょろしてっとはずかしーと思いまあす」
 早くも一段目のオレンジソルベを粗方胃におさめた慈郎が、興味のなさそうな、それでいてバカにしたような癇にさわる間延びした声で言った。跡部が訝しく睨んでも慈郎の視線は広いガラスの外に散漫に飛んだまま、舌も意識もアイスに集中したまま、声だけがとてもおざなりに跡部を向いている。
「おんなとカップルと親子連れしかいねーこんなとこにおとこふたりじゃ目立つっしょふつー。制服だし。跡部だし。ちょっと考えればわかんじゃん」
 さも当然という口のきき方を慈郎にされると殊更腹立たしく感じるのは、跡部の心が狭いからではなく、慈郎の日々の行いのせいだ。普段いかに非常識な言動をくり返しているか省みろと、慈郎に関しては常に気短になる自身には無自覚のまま、跡部は声を低くする。
「俺だし、ってのはなんだよ」
「跡部みてーなやつがそーゆーふうに鈍いのってむかつくよね。てゆーか」
 慈郎は大好物であるらしいチョコミントアイスを舐め舐め、上下の唇をうっすらとシアン色に濡らしたまま、言葉よりよほど刺々しい上目使いで跡部を見た。跡部は愕然と無防備にその視線を受け止める。
 むかつく? なぜいまそんな台詞が出るんだ、そんな不機嫌な目で突き刺されなくてはならないんだ、あまりにも
「きもい」
 心外だ、と思ったが続いて出た慈郎の発言は心外どころではなく、怒りもわかず疑問すら浮かばず、いっそ呆れるほどに意味が取れない。
(つき合ってらんねえ)
 何を言い返す気も起きず跡部はただため息をつき、スプーンですくったきり食べる機会を逸していた自分のアイスを口に運ぼうとする。と、突然その手を慈郎につかまれた。
「これは何味」
 抑揚なく訊くなり慈郎はスプーンを持った跡部の手を強く引っ張り、遠慮も恥ずかしげもなくそのまま食いついた。おい! と思わず叫んで跡部は慌てて手を引いたが、スプーンの上のアイスはもちろんきれいに姿を消し、代わりにプラスチックの柄のつけ根にうっすらと歯形が刻まれていた。
「んめえ! なあに、紅茶?」
 途端に幼さ全開の明るい笑顔を咲かせる慈郎、目の前で呼吸をする動く生きているそれが、さっき薄闇のような瞳で、錆びついているのに切れ味だけはだらしなく残った厄介なのこぎりみたいな言葉を吐いた生き物と同一とはとても信じられず、その気味の悪い錯覚と妄想に跡部は小さく身震いをする。一瞬本気で寒気を覚えたのは、カップに触れた指先から伝わる濡れた冷気と、加減知らずにききまくっている店内の冷房のせいだと思いたい。
 何味何味と慈郎がうるさく尋ねてくるが迂闊にもど忘れし、ティーなんとか、と跡部はおよそ彼らしからぬいい加減な答えを返してしまう。ティーなんとか。慈郎はバカ素直にくり返して呟くと、やけに力強くチョコミントの残りごとコーンを噛み砕く。
 欲しいならやる、とスプーンについた慈郎の歯形を見つめ、跡部は思った。大いに彼のお気に召したらしい紅茶味はもちろん、言いなりについ選んでしまったまだろくに手つかずのチョコレートミントも全部やる、と、口に出そうとしたけれどあっという間にコーンまで残さずぺろりとたいらげた慈郎が、
「もういっこたべてもいい?」
 床に爪先の届かない高い椅子の上でご丁寧に身体ごと跡部を向いて、不吉に行儀よく揃えた膝頭に両手を置き、ものすごくわざとらしく首を傾げて見せた。跡部が無意識にカップに食い込ませた爪、楕円形に歪んだカップにはもはや存在意義もなく、
「俺もティーなんとか食いたい。コーンがいい」
 調子のってんじゃねえぞ百四十円野郎、と一蹴するのはあまりにも簡単でうつくしい常識だった。跡部は黙ったまま、ドンと財布をカウンターの上に叩きつけた。慈郎はそれこそ輝くような笑顔で財布を抱きしめると、おそるべき素早さでレジへすっ飛んでいった。跡部あいしてる! とかいい加減極まりない早口で言い垂れやがった。死ね。
「マジあんがとーね!」
 間もなくニコニコと戻ってきた慈郎の手にはご所望通りコーンに盛られた紅茶味、の上にさらに薄いレタスグリーンのアイスが重なっていて、跡部はもはや何を思えばいいのかも見失う。
「それのどこがもう一個だおまえ」
「ダブルがいっこだもん」
「腹壊しても知らねえぞ」
「ティーオーレっていう名前だったよ紅茶」
「……その上のはなんだよ」
「マスクメロンでーす。たべる?」
 いらねえとそっぽを向き、跡部は溶け始めている自分のアイスにふたたび手をつける。
 慈郎といると、何もかもがどうでもよくなることがあった。身体、頭、こころ、あらゆる部分から力が抜けて、ただ笑ってしまえばいいような気分になることがあった。完全に不完全な失敗作のくせに逃れがたい悪質な魔法のようだ、慈郎が自分の言いたいことだけを思慮なく法則なくバランスなく組み合わせた呪文を唱えながら、わらっておもちゃのステッキを振るう。
 跡部がチョコミントの最後のひと口をカップからすくったとき、またその腕を横からつかまれた。うんざりと目を向けると、慈郎が、今日はじめて見せるとても真剣な表情を浮かべていた。
「そ、そと、出たい」
 あーん? と眉をひそめるまでもなく、跡部はすべてを理解した。慈郎の手にはマスクメロンを食べ終えてティーオーレだけが残ったアイス、もともと広くない肩はさらに小さく縮まり、カチカチと細かく歯が鳴っている。
 なんて、見上げた阿呆。いくら夕方になっても気温が三十度を切らない地獄の真夏日とはいえ、冷房のガンガンにきいた店内で立て続けに三つもアイスクリームを食べれば身体の芯から冷えきるのは当然だ。
 跡部は声を殺して笑った。本当は大声で笑い飛ばしてやりたかったが、慈郎みたいにまったく人目を気にしないなんて迷惑で自由な振る舞い、自分にはきっと一生できない。
 跡部が最後のチョコミントを口に入れて席を立つと、制服のシャツの背にわずかな重みがかかった。そうやってこどものようについてくる慈郎、シャツを握りしめられてしわくちゃにしたままの自分、端から見ればおかしな図なのだろう、まあいい、いまだけは好きにさせてやる。
 慈郎は店の外に出るなり、あったけーたすかったあ、と季節はずれもいいところに口走り、歩道脇の植え込みのレンガ囲いをベンチ代わりに座り込んだ。一瞬ためらったあと、跡部も並んで腰を下ろすと、
「な、んで、跡部ってさ」
 まだ全身をかたかたと震わせて、それでも懲りずにすこしずつティーオーレをかじりながら、歯の根の合わないまま慈郎が言った。
「こーゆーとこすわんの、いやがんの」
「だらしねえからに決まってんだろ」
「コートにはふつーにすわるじゃん」
「アホか。まったくの別も、うお、ジロー!」
 納得できないふうに上目使いになる慈郎の顔のある一点が、よもや真夏、八月、夏休みの最後に目にするとは予想だにしていなかった事態になり果てていたので、跡部は思わずぎょっとした。
「おまえ唇紫になってるぞ」
 慈郎は一瞬目を丸くしたあと、マジ? と心なしかおもしろそうに言って、中指で自分の唇をなぞる。アイスがついたのか、その指を舐めてから、血の気の失せた唇で笑った。
「ちゅーしてくれたらなおるよ」
 跡部は力いっぱい無視した。ちぇー、と慈郎があたたまる気配のない唇を尖らせて拗ねるのが、視界の端に映った。
「あとべには、」
 と、小さな声がこぼれて、跡部はひどく安堵した。慈郎が本気でそんなふうに信じているのなら、やはり彼にだって呪文は唱えられずリュックの中にステッキはなく、魔法なんて使えはしないのだ。
 あとべには、そういうまほうがつかえるのに。

 

 

 2005.10.4 / おめでとう跡部。誕生日と関係ない話ふたたび。すいません…。
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