と  

 

 

 

 あー……やりてぇ。
 やりてぇやりてぇやりてぇあとべと、
「ジロー」
 やりて、
「ジロー黙らねぇと殺す」
 ぇ?
 隣から伸びてきた、正しく行儀よく上履きを履いた長い足が机の横腹をガゴと蹴って、慈郎をすこしばかり驚かせた。背中を丸めてほとんど覆い被さるように机上のレポート用紙に向かっていた上体を起こし、数度まばたきをする。
 教卓を挟んだすぐ目の前で威圧的に腕を広げる黒板の中央では、三限自習、のご機嫌な白いチョーク文字が踊っている。その下には黄色いチョークで、「出歩くな飲み食いするな課題やれ」のなんら意味も効力も持たない命令文が投げやりな斜め下がりの文字で書き殴られている。
 そこまでは、慈郎の記憶とちゃんと噛み合う。二限目のあとの休み時間に次は自習というステキ情報が課題のプリントとともにもたらされ、じゃー俺中庭で昼寝してくんねと当たり前にあくびをしながら席を立とうとしたら逃がすわけねぇだろとばかりに跡部に捕まって、課題をやれと言われるのかと思いきや提出期限を早一週間ぶっちぎっている生物の実験レポートをいい加減仕上げやがれと怒られて、なんだよけち跡部のバーカバーカとぶうたれながら渋々机に向かっていたのだ。
 が、何分ぶりにか顔を上げてみれば、様相はだいぶ変わっていた。黒板の自習の文字の横には、「ゆえに席替え!」と浮かれた告知がなされ、縦横六列ずつのマス目で描かれた美しい座席図が燦然と輝いている。教卓には誰のものだか中身がカラの道具箱が置いてあって、窓際の教師用の簡易デスクでは数人の女子が、小さなメモ用紙に色とりどりのペンで数字を書き入れては几帳面に細かく折り畳むという作業に励んでいる。
「席替えすんの?」
「らしいな」
 跡部は片手でひらいた文庫本に目を戻しながら、興味なさそうに答えた。机の上に広げられた英文法の課題プリントの解答欄はすでに一分の隙もなく埋められている。いまレポートやれって命令したんだから課題の答えは見してくれんだよねと慈郎は図々しく考え、跡部の机に手を伸ばそうとしたが、気配を読まれたのかギロと睨まれたので慌てて目を逸らして黒板の座席図を眺めるふりをした。
 生徒の自主性を重んじる氷帝学園なので、担任の方針にもよるが、生徒の一存で席替え班替え掃除当番の交替などを行っても問題になることはまずない。しかしホームルームならまだしも自習時間を使うってさすがに怒られんじゃねーのと慈郎がらしくなくまじめに思ったとき、席替え用のクジを作り終えて教卓にやってきた女子たちの手から道具箱の中にばらばらと、折り畳まれた紙切れが降りそそいだ。
 クジ回すから席に着いてくださァいとクラス委員の女子が言って、教室のあちこちで固まって課題をやったり談笑したりしていたクラスメートたちが、皆やる気満々で自分の席に戻っていく。宍戸その他、いま現在窓際とかいちばん後ろの列とかの人気の高い席を所有している若干名からはブーイングが起こっているが、必然的に黙殺されて終了。
「ジロー、終わったのかよ」
 跡部は席替えにはまるで興味がないようで、まあ彼ぐらい成績も素行も完璧な優等生にとってはどの席は指されやすいとか居眠りしにくいとかどうでもいい世界なのだろう、慈郎の手元を覗き込んでくる。教卓の道具箱に気を取られていた慈郎は慌ててレポート用紙を隠そうとしたが遅くて、跡部の眉間にあっという間に山折り谷折りが刻まれる。
「ぜんぜん進んでねぇじゃねーか、あーん?」
 跡部は文庫本を閉じて机の中にしまうと、座ったままガガと椅子を引きずって慈郎のすぐ隣に寄せた。それ逆効果なんだよねあんまくっつかれっと集中切れるんだよね抱きつきたくなるんだよねと、ときと場所を選ばない、選ぶ気のない慈郎は思う。
「寝てたんじゃねぇだろうなおまえ」
「えー……起きてたよ?」
 不愉快そうな目で睨まれ、慈郎は肩を縮めて答えたが、本当はよく覚えていないのでその迷いが語尾に出る。席替えの決定にまったく気づいていなかったということは意識は確実に飛んでいたのだろうが、寝ていたのではなくてものすごくレポートに集中していたのかもしれないし(自分で言っててありえねぇ!)、何かぼんやりと考えごとをしていたような気もする。あー、うん、なんか考えてた。半分ぐらい寝てた気もすっけど。跡部にそう訴えようとしたら(「起きてましたーレポートはやってねーけど」)、
「寝言かよ、アホが」
 語尾上がりの慈郎の答えを寝ていたと捉えて決めつけたようで、跡部が忌ま忌ましげに舌打ちをした。女子クラス委員が道具箱を持って座席間を回り、窓際の列からクジ引きが始まっている。
「俺なんか言ってた?」
「知るか」
 跡部は不機嫌に言い捨てると、慈郎のレポートの漢字の間違いに目敏くチェックを入れ始める。そんなのいいから続き書いてよと思いながら、慈郎は女子クラス委員の持ち歩く道具箱を目で追いかけた。クジ引きを終えた生徒たちから次々と、ぎゃーとかよっしゃーとか叫び声が上がる。席決まったやつ自分のとこに名前書いてってー、と男子クラス委員が黒板の図を示す。
「嬉しくねぇのかよ?」
「え?」
 急に訊かれて跡部に視線を戻すと、訝しげにすこし片眉を持ち上げている彼と目が合った。
「こんな席冗談じゃねぇってさんざん言ってたじゃねぇか」
「あーうん、そりゃね」
 慈郎は曖昧に笑った。知らず知らずのうちに変な顔をしていたのだと気づいた。
 窓側から三列目廊下側から四列目の最前列、教卓が眼前に迫る何をするにも最大限に不都合なこんな席、いやに決まっている。席替え席替えと騒ぎ立てていたのは事実だ。
(でもさ、隣に跡部がいんじゃん?)
 はい芥川、と女子クラス委員が慈郎の机の脇に立って道具箱を差し出した。きれいに折り畳まれた、ところどころにファンシーな模様の見え隠れする紙片のあいだでうろうろと指を遊ばせてから、慈郎は結局ひどく適当に乱雑にひとつをつかみ取った。エスパーじゃあるまいし、選びようがない。
 ひらいた紙切れに丸っこい文字で記された番号を黒板の図と照らし合わせる。窓側から二列目の後ろから二番目、悪くない。だけどまだ問題がひとつ。
 女子クラス委員が慈郎の列の最後尾まで回り、右隣の列を後ろから遡って、そして跡部のところにやってくる。跡部は慈郎のレポートのチェックを終えた末、このままではどうしようもないと踏んだのかまとめるべきポイントを別紙に書き出してやるという甘やかし作業に入っていて、道具箱の中などろくに見ず、実に無造作にクジを引いた。あまりにも前置きのない早業は流れ星よりも一瞬で、慈郎はまんまと願いごとをしそびれる。
「おまえ見て黒板に名前書いとけ」
 跡部はぽいと畳まれたままのクジを慈郎に寄越し、それきりレポートの手伝いに没頭した。
 慈郎は両手で受け取った紙片をじっと見つめ、俺の隣でありますようにといま頃願う。後ろでも前でもいや、授業中顔が見えないから、遠くもいや、さわれないから、隣じゃねぇと絶対にいやだ。
 妙に熱を持った指先でクジをひらこうとして、慈郎はふと、さっき半分眠りながら何を考えていたかを思い出した。跡部とセックスがしたいと思っていた、だってこのあいだやってる最中の跡部を見てちょっと思ったことがあったから言ったらものすごく怒られてそれ以来キスしかさせてくれない、もう一週間近く我慢してんだけどそろそろ無理なんだけど。
(俺の隣を引いてて)
 だけどいまはこっちが大事だ、セックスより、新しい席順なんかがとても大事。
(俺の隣にきて)
 好きな女の子の隣になりたいと全身全霊で神様にさえ願う初恋中の小学生みたいに緊張して、慈郎はクジをひらいてゆく。もしも隣でなかったら、こんな紙切れ丸めて食べて、なかったことにしてしまえ。

 

 

 2005.5.5 / おめでとう慈郎、生まれてくれてありがとう! ハピバ話じゃなくてすいません。
 ×