四月、始業日、また新しい一年が始まったけれど、最高学年になったからといって突然勤勉に目覚めたり部活動に燃えたり恋の嵐がやってきたりするわけもなく、いつも通りに慈郎は眠い。放課後になり、人けとともにクラス替えの興奮と喧騒も引いて居心地のよくなった校舎の廊下を、サロンの自動販売機で買った紙パックのイチゴオレのストローをかじりながら目的のない足取りで歩く。
窓の外では風が存分に暴れているようで、ときおりいっせいに舞い吹雪く桜の花びらがとてもきれいだ。高く真っ青な空に向かってのびやかに閃く花びらたちの居場所は絶対的にそこにあり、地面に落ちて踏みつけられて悲しい茶色に汚れていく日なんて永遠にこない気がした。
慈郎は立ち止まり、手近な窓をあけてみる。計ったように風が吹き渡って、枝からさらわれた花びらの幾片かが慈郎の褪せた黄色い髪や踵を踏み潰した上履きの足元を儚げに飾った。
銀色のサッシに腹を押しつけて見下ろした先には校舎間に設けられた中庭があり、高く昇った太陽に十分にあたためられた立ち入り禁止の芝生やいくつものベンチが見える。つるつるとイチゴオレを吸いつつちょー昼寝してぇと慈郎はひとりごちたが、のん気にそんな願望を唱えている場合でも、こんなところでふらふらしていられる立場でも本当はなかった。
もうとっくに部活が始まっている。部員総勢二百名、関東にとどまらず全国でもその名を知られる強豪氷帝学園男子テニス部に在籍している慈郎だが、活動態度はいっそ自慢できるほど不真面目だ。欠席率も遅刻率もコートに姿はあるのに練習には参加していない率もダントツトップで、その座を他者に奪われる心配はこの先たとえ卒業したって半永久的にない。奪おうと目論む者がまずいない。
眠いときに寝ていたら結果そうなったわけだが、慈郎にとって人生でいちばん大切なのは睡眠だしそれは生物的にも正しいことであるようなので、うしろめたさの類いはまったくない。人間の欲って強い順に寝たい食いたいやりたいなんだってーとへらへら笑う慈郎に、部員たちは皆どうでもよさそうに半端な笑みを返したり鬱陶しげな視線を向けたりしたが、特に何を咎めるでもなかった。
だから慈郎は好きなときに寝て、目が覚めて気が向いたらテニスをし、とてもご機嫌な学生ライフを満喫していたのだ。それなのに、去年の秋頃からすこし様相が変わってきた。それは実際結構な変化だったのだけれど、慈郎がすこしとしか認識していないので、あくまで「すこし」だ。
三年生が引退してひと月もたたないうちに、ふと気づけば慈郎は正レギュラーの座を不動のものにしていて、氷帝男子テニス部二百人の頂点に近いとってもすごい人になっていた。頻繁に行われていた部内でのテスト試合には確かにすべて勝ったし、それはそれは目を見張るようなスピードのうつくしいラブゲームばかりで文句なしの正レギュラー入りだったらしいが、慈郎にはろくに自覚がない。何しろ自分の正レギュ入りの確定を全部員中いちばん最後に知ったぐらいだ。
慈郎はもともと勝敗に固執するタイプではないので、それによっていつの間にか決定していた正レギュラーの座にも興味がわかなかった。だってテニスってスポーツだしたのしきゃいーじゃんて思うわけ、勝ち負けがぜんぶなんてセンソーかよ。
とにかくそれ以来、寝ているところを叩き起こされて他校との練習試合に駆り出されたり、部活をさぼって三時のおやつをしていたりすると、二回に一回は迎えがくるようになってしまった。正レギュラーが欠席ばかりでは示しがつかないという跡部の考えは至極真っ当なものだが、そういうところでだけ我に返ったように常識を振りかざすのはやめてほしいと慈郎は思う。迷惑だ。つーか試合んときのオメェの登場の仕方はなに、あれがしめしですかほかのガッコのやつらどんだけひいてるかわかってんのかな俺だったら二時間笑うね!
「しっぎょーしきから部活なんていや!」
勢いづいて窓の外に向かって叫ぶと、賛同するように桜の嵐が起こった。
「半ドンなのにべんとー持参なんてくるってる!」
やわらかな薄桃色に視界が塗り潰され、薄っぺたな花びらが意外な力強さで頬や額にぶつかってきて、慈郎はにわかに楽しくなる。ぎゃっは、と大口をあけたら口の中にも躊躇なく花びらは飛び込んで、驚いた拍子に丸呑みにしてしまう。どうせなら味わえばよかったきっとまずいすげーまずいと思って咳き込みながら慈郎はしつこく笑った。
「さぼりてー!」
景気よく叫んで隣の窓をあければそこからも怒濤のごとく風がなだれ込み、大量に花びらの置き土産を撒いてゆく。
「帰りてぇ!」
上機嫌でひとり大声を張り上げ、慈郎は次々に窓を全開にしながら廊下を歩いた。振り返ればあけた窓のすべてから吹き込んだ花びらが、掃除が行き届いて清潔だが味気なさだけは磨き切れないリノリウムのそこかしこを春めいて汚していて、自分の足跡みたいで悪くない。跡部がいたら絶対に怒られると思ったので、ちょっと真似をしてみる。
「なにやってやがるジロー、ひとりでそうじしろよ、だれもてつだうんじゃねぇぞ!」
うお、似てねーし! びっくりするほどそれは跡部になっていなくて、っかしーな、こないだ宍戸やがっくんに聞かせたときは似すぎてて爆笑だったのに(そんで跡部に首が一回転しそうなぐらい殴られたのに)。慈郎はわざとらしく空咳をして喉の調子を整えると、あ、あー、とご丁寧に発声練習までする。そして、よしもっかい、と意気込んだ刹那、右側の教室の中の人影を視界のごく端に唐突に見た。
ぐると視線を移動させれば、三年F組に誰かいる。無人と信じていた教室のほぼど真ん中にぽつりとひとり男子生徒が存在しているさまは飛び抜けて奇妙だ。と、思った。
ひとりぼっちの彼は、黒く長い前髪が重たくて邪魔そうだ。光の加減でレンズの斜めに半分ほどが白いプラスチック板のように見える眼鏡も邪魔そうだ。
その邪魔そうなふたつの奥に見える顔はひどく大人びて冷たくてああいやなかんじと慈郎は思った、けれど前髪をつかみ上げて眼鏡をむしり取って間近で見てみたい気もした。邪魔そうに見えるということは、慈郎が邪魔だと決めつけたということだろうか。あいつの顔をちゃんと見たい? 耳のうしろがぞくりと粟立つ。
彼はたぶん慈郎の大音量のひとりごとをすべて聞いていて、うっすらと呆れたような迷惑そうな顔をしていた。最悪に似ていない跡部の真似も聞かれていたのだと思うと恥ずかしい、でも似ていないということは誰だかわからないということでつまりモノマネであると気づかれずにすんでいる可能性もある。
慈郎がすこし愛想笑いをして見せると彼もわずかに唇をゆるめたが、笑ったのかどうか判然としない曖昧さのまますぐに視線を机上に逸らし、慈郎とのコンタクトをそれきり絶つかのように頬杖をついて顔を背けた。
慈郎は桜の花びらの踊る廊下の窓際を離れ、F組に踏み入る。自分のクラスから五つも遠いそこは、積極的にさぼりを実行する以外は普段ろくに教室から出ずに一日を過ごす慈郎にとってはもはや異世界と呼べる。きちんと覚醒して正しく頭を回転させている時間が極端に限られているせいでクラスメートの顔と名前を一致させるのさえひと苦労の慈郎なので、たぶん一度も同じクラスになったことのない目の前の彼もまた完全に異世界の住人だった。
「テンションがねぇ、あがるの」
机の横まで行って頭上から声を落とすと、彼は頬杖のまま斜めに慈郎を見上げた。近くで見れば当たり前に全面透明な丸いレンズ越しの無感情な目、その片方だけでものを見るように視線を送られる感触に、また項のあたりがぞくりとうそ寒くなる。これなに?
「春ってたのしくなるでしょ?」
だから廊下でひとり大声で叫んでいたんですとらしくなく言い訳めいた思いで言ってみると、そやな、と別段なんの興味も侮蔑も含まない声が返った。慈郎は彼の前の席の椅子を引き、うしろ向きにまたがって座った。
「なにしてるの」
「時間潰しとん」
机上には映画雑誌らしきものが広げられている。遠慮や配慮とは縁遠い慈郎が、いつも通り何も考えずうっすらと水滴の浮いたイチゴオレのパックを雑誌の上に置く寸前、彼は眉ひとつ動かさずに雑誌を引いた。ゴト、と思いの外重たい音を立てて紙パックは机上に落ち着き、ごく微細な水の粒が天板を濡らした。
「なんで時間つぶしてるの」
「部活始まる時間が延びててん。知っとるやろ」
「ふうん。たいへんだね」
「自分かてそうやろ」
彼はなぜだかひどく訝しげに慈郎を見た。話が通じない相手を見るとき人間はこういう目をすると、慈郎はこれまでの経験上わりとよく知っている。跡部や宍戸にときどきされる。でもそれは三日連続で教科書を忘れて跡部に怒られて、うちにはアイロンの精が出るんだけどあいつら働き者だから教科書もプレスしちゃってそしたら燃えるじゃん? と答えて雷が落ちたときや、雪山で遭難すればみんなだってぜったい寝るから俺は雪山にいきたいと真剣に語ったら、頼むからまじめに生きろ、と哀れむように宍戸にぽふぽふと肩を叩かれたりしたときの話であって、いまはそんなに無茶やアホを口走った覚えはない。なのにどうしてこの黒髪眼鏡はそんな目で慈郎を見るのだろう。
慈郎はすこし不愉快を覚えつつ、彼の机の上に頭を横たわらせた。さっきの水滴つき紙パックでわずかばかり学習したので遠慮はしたつもりだが、狭い机上では大した意味もなく、慈郎の黄色い髪の毛がふわふわと誌面を隠して彼が軽く眉をひそめる。ずる、と頭の下から雑誌が引き抜かれるのを感じながら、慈郎は訊いた。
「ここで寝ててもい?」
「ええよ」
返事は案外あっさり返り、その無責任さと無感情具合から彼がいますぐにでも席を立つのではという不満、いや不安? が込み上げて、慈郎は首を持ち上げる。
「オメェ帰るときに起こして?」
「せやから帰らんて。部活やっちゅーてんねん、自分やって」
「起こしてね」
「……ええけど」
あきらめたように呆れたように、脱力感あふれるため息を交えて彼は承知した。また首筋がひやりと震える感じがして、なんだろうと慈郎はひどく不思議に思う。この無闇に冷静に見える男がわずかでも表情を曇らせると、俺はなんだかうれしいみたい?
そこでふと思いついて、頭をまっすぐに起こして顎は机につけたまま、慈郎は緩慢に尋ねてみる。
「名前なんてゆーの」
そうしたら、はじめて、彼は露骨に不快感を表情にのせた。目を眇め、黒い前髪の下からはっきりと睨むように慈郎を見据えた。
ビリと背骨が痺れて首回りが急に熱くなって、慈郎は慌てて背筋を伸ばす。なんだかすごくどきどきした机の上に乗り上げて彼につかみかかりたいなんておかしな衝動、頭の中が春、春、春。
「忍足侑士」
区切りなく抑揚もなく、低く彼は答えた。さしてかわいくもない、まして好きであるはずもない野良犬になりゆきで仕方なく餌を恵むように投げやりだった。
「おしたりゆーし」
一度目は声に出して、それ以降は口の中で何度も復唱しながら、慈郎はまた机に頭を横たえる。そうして天板に耳を密着させると頭の中にガンガンと心臓の音が轟いて、うるさい、おかしい、魔法にかかったみたい、簡単には眠れそうもない。
あ、俺の名前もこいつにおしえなきゃと思って、けれど言った途端に一等不快げな顔をされる予感が確定的にした。その理由を考えようともせずに慈郎はまたすぐさま顔を上げて彼を見据えた、笑った、望むところだ。
「俺は芥川慈郎っていうの。ジローって呼んでいいよ!」
2005.6.11
×
|