げんしょの よくぼう
丸井くん丸井くんとうるさい人がいる。
はっきり言って、つーか別にそんな前置きぜんぜんいらないぐらい普通に、うぜえ。
(いつから見学自由んなったんだようちの練習)
放課後になったばかりでコート上に人はまだまばら、真田や柳生あたりの口うるさい上級生の姿もないので、早めに出てきた部員たちはそれぞれ適当にストレッチをしたり戯れ程度の打ち合いをしたり、かと思えば本気でスマッシュの腕を磨いたりしている。みんなてんでバラバラに動いていてとても練習が始まっているとは言えないけれど、それでも天下の立海大付属中テニス部が、こうもほいほい部外者の侵入を許してしまっていいのだろうか。
と、普段規則なんて道端の小石ほどにも思っていない赤也がつい気にしてしまうぐらい、あのヒヨコ色のくるくる頭の他校生をよく見かける。昨日も一昨日もその前も、さらに先週、先々週だっていた。
コートをぐるりと囲む芝の観戦エリアのいちばん前に陣取って低いコンクリの仕切りから身を乗り出し、ひたすら丸井ブン太の姿を追って、あるいは探して大きな目を動かしているヒヨコ頭の存在は完全な異物であるはずなのに、いまや当然の顔をして図々しく赤也の目に馴染む。褪せた黄色の癖毛を真っ青な空の下で殊更目立たせて、ブン太を見るためだけに存在しているふたつの目も爽やかな初夏の陽射しに負けないくらいキラキラ。
(バカなんじゃねーの。ホモ?)
膝の屈伸をしているつもりでその実そんな単純な運動にすらまったく身は入らず、ぴょこぴょこと立ったりしゃがんだりしながら、赤也は横目にヒヨコ頭を観察し続ける。彼はコンクリの仕切りに顎をのせて両腕をコート側に垂らし、なんだか風にさらわれてきてそこに引っかかった洗濯物みたいになりながら、ニコニコとコートの一点を見つめている。あのご機嫌な視線の先にいるのが、先ほどから奥のコートのほうで何やらぎゃあぎゃあとやかましい臆面もなく天才を謳う赤茶けた髪の顔だけはかわいいわがまま放題の先輩かと思うとおもしろくない。なぜだかとてもおもしろくない。
チッと舌を打って勢いよく立ち上がり、原因不明の苛立ちを吹き飛ばそうと大きく伸びをすると、
「ねーちょっと!」
と、まったく好意のかけらもない声が飛んできた。普段、丸井くんかっけー丸井くんすっげーすきすきちょーすき、とかなんとか頭の悪いことしか言わない声が珍しく別のことをしゃべろうとしているなあと赤也はぼんやり、
「ちょっとそこのモジャいの!」
ふたたび横面に叩きつけられた、およそ凄みも鋭さもないのに刺々しさだけは満載の変な日本語を、もじゃ? とつい声に出して反芻してしまってから、赤也はギッとヒヨコ頭のほうを睨んだ。ヒヨコ頭は赤也の鬼のような視線をものともせず、犬でも追い払うみたいに片手を激しく振り動かしている。
「オメェじゃま! 丸井くん見えない、そこどけ!」
赤也は大股で一気にヒヨコ頭のところまで歩いた。真正面に立たれて視界を塞がれたヒヨコ頭が、途端に不機嫌を通り越して凶悪な目つきになる。
「どけっつってん」
「あんたさあ、氷帝でしょ? レギュラーでしょ? いちお強ェとこの強ェ人でしょ、まあうちには勝てねえし俺にも勝てねえと思うけど、そんな人が毎日人の学校で何やってんの」
「丸井くんに会いにきてんの。今日いっしょにアイス食べて帰る約束してんの、どけ」
氷帝は立海に、ヒヨコ頭は赤也に敵わないという挑発にまったくかからず、ヒヨコ頭は丸井ブン太のことのみを口にした。プライドもくそもないバカだと赤也は思った。一度死んだほうがいい類いのバカだと呆れた途端そのバカが、
「あっ丸井くんが呼んでる!」
目を輝かせてコートに飛び出そうとしたので慌てて止めたら勢い余ってラリアットみたいになってしまって、仕切りを飛び越し損ねたヒヨコ頭は見事に芝の上にひっくり返った。
「ってえな! なんなんだオメェ!」
尻もちをついたまま歯を剥くのをとりあえず放って赤也は奥のコートのブン太のほうを窺ったが、彼はジャッカルと何やらじゃれ合って(というか一方的に絡んで)いてこちらを気にしている様子はなく、本当にヒヨコ頭を呼んでいたのかどうかは定かではない。いや絶対に呼んでなんていない、身振りが偶然そういうふうに映っただけだ。
赤也はヒヨコ頭に目を戻し、鼻で笑ってやった。かわいそうな人だなあ、頭が。
「丸井先輩は今日宿題すげえ多くて帰りにジャッカル先輩んちでいっしょにやってくって言ってたから、あんたとアイス食ってるヒマなんてねースよ」
「うそだ」
嘘だよ、と赤也は認めた。もちろん口には出さない。一拍の間も寸分の迷いもなく赤也の言葉を嘘と言い切るヒヨコ頭が憎かった。
「ほんとです。だからあんた、丸井先輩じゃなくて俺のこと待っててよ」
「は? なんでオメェなんか」
「俺があんたといっしょにアイス食べてあげる」
「たのんでねーし」
「おごってあげる」
そのひとことで拒否を飲み込むヒヨコ頭はやっぱり頭のかわいそうな、あるいはバカっかわいい人種なんだなあと赤也は心中で嘲笑する。そしてそんなものを必死でつかまえようとしている俺はなんだ?
「決まりっスね。俺を待ってて」
ヒヨコ頭はなんだか納得のいかないような顔をしながら、中途半端に、けれど確かに頷いた。赤也が手を差し出すと、なんのためらいもなくそれにつかまって立ち上がる。そしてまたコンクリの仕切りにのしかかると、やっぱり変わらず丸井ブン太だけを見つめるのだ。
「あんた名前なんていうの」
本当は知っていて尋ねると、ヒヨコ頭は答えるほんの一瞬のあいだだけ赤也を見た。
「あくたがわ」
とても簡単にそう名乗った。同じく芥川と彼を呼び捨てるブン太には、ジローって呼んで、と男に名前で呼ばれることをステータスと勘違いしているバカ女みたいに、日々しつこく要求しているのを知っている。
背後で、ちィース! と元気のよい挨拶の声が次々に上がり、真田が現れたらしいことを赤也に教えた。赤也はヒヨコ頭に背を返し、コートへ向かって全力で走った。部活が終わったら、ヒヨコ頭とブン太が接触する前に、自分の嘘がばれる前に、なんとしてでもヒヨコ頭をさらって逃げなくてはと思った。
俺はあれが欲しい。
2005.9.28
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