横断歩道の向こうのうしろ姿がふいに強烈に意識に視覚に食い込んだ理由その一、その人が右手に裸のままぶら下げた自分の愛用品と同メーカーのテニスラケットのせい。その二、これも自分と同じくるくると癖の強い髪の毛のせい、太陽の光を派手に透かすその色は似ても似つかないけれど。その三、ただ単純に、見知った人だったので。
その人の名前を呼ぶより先に、信号が赤に変わった直後の横断歩道を渡ろうと走り出、そうとしたのに突然うしろから右肘をつかまれ、赤也は危うくつんのめりそうになった。こういうとき必ず邪魔をする常識家で面倒見抜群ゆえにありがた迷惑なチョコボールの先輩や、もはや嫌がらせ級にクソ真面目な眼鏡の人や、突き抜けて融通のきかないおっかない副部長は今日は一緒じゃないのに、俺はいまひとりで自由なのにと思いながら訝しく振り向くと、見知らぬじいさんがしっかりと赤也の腕をつかまえている。こりゃあ危ねえだろがあ、とまったく酔っ払いみたいな呂律と大声で怒鳴るでもきっと素面そのもののじいさんは、じいさんのくせに顔もガタイも滅法こわくて、赤也は引きつった愛想笑いを浮かべてすんませんと謝った。
じいさんは腕を離してくれなくて、前に向き直れば流れ出した車列に遮られてただでさえどんどん遠くへ歩道の雑踏へ飲み込まれてゆくあの人の背中もずいぶんと見つけづらくなってしまっていて、赤也はひどく後悔した、ああくそこんなことなら信号無視の前にありったけの声で叫んでおけばよかったあの人の名前を。
離せよじいさん、と面と向かう勇気のないままに赤也は歯噛みする。横断歩道なんて車道の信号が赤のうちは渡っていいんだよ途中で青になったって車が待ってくれるんだよ誰も人轢いて自分の人生殺したくなんてないんだから人間様歩行者様のほうが偉いんだから、なのにてめえら、くるま、勝手に走ってんじゃねえよ俺がまだ渡ってねえのに。
永遠みたいな数十秒が過ぎて車道の信号が黄から赤に変わった瞬間、もたつく歩道の信号もまだ同じく赤だったけれど、じいさんのごつい手を振り切って赤也は駆け出した。こおーりゃあ、と追いかけてきたじいさんのでかい声は、やっぱり立派な酔っ払いのように聞こえた。
日曜の真昼の雑踏に突っ込み、肩に担いだテニスバッグが十分な凶器になって人々にぶつかり押しのけるのを反省もなくむしろ好都合だと最大限に利用しながら走るうち、角のマンションの前で、ようやくその人の背中に追いついた。
また、名前を呼ばず、肩をつかんで強制的に自分の存在を知らせれば、黄色い癖毛の頭が緩慢に振り向いて、黒い眉の下の大きな瞳がなんの感情も匂わせないまま眠たげに一度まばたいた。
「ちわ、っス」
息を弾ませながら赤也が申し訳程度に頭を下げると、慈郎はすこしだけ何かに気づいたような顔をしてまたまばたきをした。
「あー、オメエ、丸井くんとこのモジャいの」
確認するようにそれだけ言うと、すぐに眠たそうなとろりとした目に戻ってしまう。仕方なく、赤也は自分から訊いた。
「どこいくんスか」
「跡部んちのコートでみんなであそぶ」
慈郎の答えには、赤也と会話を続けようという意志が絶望的に皆無。ここは都内で、氷帝学園にほど近い彼らの縄張りであるのだから、そこをうろちょろしている赤也こそが異物なのだから、何をしているのどこへいくのなんて問いは、本来慈郎がしてくれるべきものなのに。
「俺、この近くのスクールに友達いるんで、ちょっと打たしてもらってきたんス」
「ふうん」
「そっちもう終わったんで」
「おつかれー」
「いっしょにいっていいスか、跡部さんとこ」
「やだ。俺が跡部におこられんだろ」
慈郎は肩をつかむ赤也の手を振り払い、またのたのたと歩き出す。なによけーなもんつれてきてんだジロー、あーん? とどうやら跡部の物真似をしながらマンションの角を曲がってゆく背中を見つめ、赤也は、悲しいほどに気づいた。
名前を呼べないのは、この人が、自分の声なんかでは振り向いてくれないような気がしていたから。予感じゃなくて確信、世界の終わりみたいにそれがこわい。
「ちょっと待ってよ、」
だけどそんなの、
「先輩」
この俺がさあ、
「芥川先輩!!」
いつまでもこわがってると思ってんの?
2006.8.20
×
|