は  オ  人  な 

 

 

 

 熱気のこもるトイレの個室で下ろした便器の蓋に座ってメールを打っていたらガンガンガンとドアを乱打されて凛は顔を上げる。アイボリーホワイトのなめらかなドアの高い位置には銀色にひかるフックがついていて生徒用トイレでは見かけない代物だが、ここは来賓用と銘打った校舎の二階の校長室に近い生徒使用禁止のご立派なトイレなので例外。しかし教育委員だからPTA役員だから学校のトイレの個室で首を吊らないなんて保証がどこに、どこの間抜けがそんなデマを鵜呑みにしてフックの設置を許したのか。唐突にそんな物騒な方向に脳みそが回転を始めてユニフォームの下の脇腹を汗がつうと流れるし、いまここは摂氏何度だ。
 ガン、とまたドアが震動する。ゴーヤーにめっかったぁ、とメールの最後に素早く打ち込んで送信してから、凛は控えめにノックを返した。
「入ってるさぁ」
「あのねぇ、バカのひとつ覚えみたいにトイレにこもるのやめなさいよ平古場クン」
 うんざりと冷ややかな木手の声がして、凛は肩にかかるやや癖のある髪のひと束を無意味に指で巻きながら、ピカピカのフックの丸い先端をぼんやり見つめる。
「狭い場所が好きなんさぁ。しった落ち着くぅ」
「キミの嗜好はどうでもいいから。無駄にこんなところで我慢大会もないでしょ、出て」
「べぇー」
 メールを送信した拍子に電池マークが赤表示になってしまったのを気にしながら、凛はだらだらと拒否をする。実際真夏のトイレ個室はサウナばりの暑さでそろそろ脱出したいのはやまやまだが、出た端から木手にとっ捕まるのではちょっと話が違う。
「キミね、幼稚園のときに注射がいやでトイレに隠れたクチでしょ」
「やさ、よっくわかんなぁ。すーぐせんせにめっかってぇー」
「部活さぼりたくてトイレなんていまどき小学生でもしない。いい加減にしないと監督呼びますよ、ほら出て」
「ハルミーなんてこわくねーさぁ」
「出なさいよ」
 バキ、とさえ聞こえる不吉な鋭さでドアがしなった。気取った涼しいツラの主将どのはあれで案外短気ですぐに本性が出る。表情を変えない器用さと狡猾さを持ち合わせているから気づく者がすくないだけだ。
「あい、なま蹴ったぁ。わーりぃの!」
「平古場クン」
 ものすごく穏やかなうつくしい発音がけれど地鳴りのように響いて、凛は慌てて立って鍵をはずしドアをあけた。生あたたかいがそれでも十分涼しいと感じられる風が流れ込んで人心地つくが、目の前にはやはり木手永四郎。たぶん眼鏡のレンズに窓からの陽光が反射しただけなのだろうが木手の無表情な瞳が確かにギラとひかったので、あらーハブがいるさと凛は密かににやついた。
 凛と同様ユニフォーム姿の木手は腕組みをして顎をやや持ち上げ右足に体重をのせるように下半身を傾がせて無駄にモデルじみた立ち姿で、均整の取れた身体と褒められた顔の造形だけに、アイボリーのタイル壁と白い陶器の手洗い器と水滴が流れて乾いた跡を細くひと筋だけこびりつかせた鏡を背景にひどく滑稽。馬鹿笑い炸裂も辞さない構えの凛だったが、あまり得策ではないと考え直して目を逸らし、そそくさと個室を出てトイレの出入り口へ向かった。器用に片眉を持ち上げてわずかばかり不快げな面持ちを見せながら、木手があとに続いた。
 出入り口のドアをあけて道を譲り木手を先に通しながら、凛は振り返る。トイレらしからぬ爽やかに大きな窓が設けられているおかげで、夏の朝の太陽は壁や床のタイルの隅々にまで光を塗りたくり、ご丁寧につやつやと磨き上げている。
 使用頻度も存在価値も低いこの場所だが生意気にも掃除だけは毎日行き届いているから、生徒用のそれとは雲泥の差できれいだ。しかし昨日から待望の夏休みで掃除当番の生徒たちももう通ってはこない、新学期の開始までには多少なりとも薄汚れるに違いない。凛のこもっていた左側の個室のドアにうっすらとついた木手の凶暴な足跡も消えないでいろ。
 廊下に出て二人並びテニスシューズを鳴らしながら歩き出すと、木手が何かもの言いたげな目を向けてきたので凛は先手を取った。
「いちいち探しーにこんでも、まいんちちゃんと時間にはコート出てるしよー」
「毎日ちゃんと、きっかり五分遅れでね」
「時間通りってぇことあんに?」
「平古場クンの時間に合わせて動いてないんですよ、こっちは」
 木手はにべもなく冷ややかだ。ひやりひやりと毛穴から冷気をだだ漏れにしているのではと妄想と期待をし、指を組んだ両手を右頬に添えてかわいいふりをしてそっと寄り添ってみたがやはり人間クーラーなんているはずもなく、やめなさいよ暑い、と邪険に押しのけられた。
「永四郎でも暑いばぁ?」
「何を言ってんです、夏ですよ、当たり前でしょ」
「はーやぁー」
 それにしては汗のひとつもかいていないと訝って剥き出しの二の腕をさわろうとすれば、やめなさいってば、と空中で容赦なくはたき落とされた。
「あがー、かわいい凛くんに何するかよー」
 凛の図太い恨みごとはまるきり無視し、木手は素知らぬ顔で乱れてもいない前髪を撫でつけている。もとより反応を求めるつもりもなかったので、凛はそのままぶーぶーと続けた。
「夏休みーなのに朝から部活ってまちがっとーさぁ。宿題終わらんかったらどうするばぁ」
「平古場クン、全国なめてる?」
「宿題の心配してるんさ」
「やる気もないくせにねぇ」
 木手は長い指で眼鏡のブリッジを押さえながらわずかに俯き、意味深に唇の端を吊り上げた。いやな予感が電流みたいに背骨を駆け上がって凛が慌ててフォローを入れようとするよりはるかに早く、
「今年こそ絶対に見せないよ」
 ものすごい流し目で言い捨てられた。ぞわ、と凛は全身の毛が逆立ったような気がした。自分が猫だったら間違いなく尻尾が膨らんでいる。やめれその顔! でーじ怖ぇ!!
「あそこんトイレ、ドアにフックついてるあんに?」
 咄嗟に口走った凛は、それが最悪の愚行であることに当然気づいていない。
「新学期ーに宿題終わってねーでせんせにもハルミーにも怒られたかわいそーなわんが」
 まだ気づいていない。
「首ィ吊っ」
 気づいた。
 木手の口端の冷笑がすうと引いて眉間にしわの一本も寄らない顔色もまるで変わらないのに額にギリリと青筋が浮いて、その冷徹極まりない顔にくっきりと「ゴーヤー」の文字が浮かび上がる。
 凛はダッシュで逃げ出した。じゅんに冗談通じねー!
 途端に手の中で携帯が鳴って走りながら見れば甲斐からの返信メールが『トイレにこもるのやめなさいよひらこばくん』と木手の口真似で入っていてむかつく。ひたすら木手と目を合わせずに練習を乗り切って逃げ帰った家の玄関を入るなりまたメール、『死ぬんならゴーヤー食って死になさいね』と木手からで、ちょっと気が遠くなった寒気もした。

 

 

 しった、でーじ=とても
 べー=いやだ
 じゅんに=本当に

 

 

 2005.4.12
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