「菊丸」
うわーなんだってそんなきまじめな声で呼ぶんだろねこいつは、と菊丸は右手のハサミをさくさくと動かし続けながら思った。背筋を正してハイなんでしょーかと返事をしなきゃいけない気分になるじゃないか、と制服の白いシャツの背を丸めたまま思った。
早朝からの部活を先ほど終え、部室にはもう菊丸と手塚しか残っていない。時計の針は午後四時過ぎを指しているが、窓の外の真夏の明るさも熱も匂いも、昼間と比べてなんら衰えを感じない。
「菊丸」
もう一度手塚が呼んだ。菊丸と同じ白いシャツを着て、無駄に姿勢よく、かつ威圧的に腕組みをしてホワイトボードの前に立っている。シャツの下に着た同色のTシャツのラインが、夏服の薄い布地越しに透けて見える。対して真オレンジのTシャツが透けまくりでそもそもシャツのボタンも全開の菊丸の姿に、手塚は最初一瞬眉をひそめたが、特に何も言わなかった。校則で禁止されている派手な色柄のTシャツ、のギリギリ一歩手前で踏みとどまっているからセーフと限りなく自分に甘い判定を菊丸はくだしているが、手塚からしてみれば一分の迷いもなくアウトのはず、見逃してくれたのはいまが夏休みだからだろうか。
「なに」
一拍の間を置いて菊丸が返事をすると、手塚はすこしばかり備えるように唇を引き結び、それから口をひらいた。
「今日の試合、手を抜いたのはなぜだ」
菊丸はハサミを使う手を止め、まっすぐに手塚を見た。口ではそう問いながらも、手塚の表情には疑問のぎの字も表れていない。眉間にしわがないのがめずらしい、と思った。妙に晴れやかであるように見える。無表情だけど。機嫌がいいのだろうか。鉄壁で無表情だけど。
「手ェ抜いてなんかないよ」
今日の部活中のテストマッチで、二年の伏見を相手に危ない試合をやらかしたことを言っているのだろう。確かに実力的に負ける相手ではないし最終的には菊丸が勝った、しかし伏見の調子がよかったのも事実だ。自己管理による調子の善し悪しも実力のうち、それをスルーして菊丸が手を抜いたと判断するのは伏見に失礼ではないのか。
「アヤっちゃん集中力すごかったし」
「おまえはムラがありすぎる」
「ですよねー!」
イエーイやぶへび! と思いながらにこやかに賛同すると、どうオブラートに包んでも軽蔑、あるいは百歩譲ってバカを見る目で睨まれた。菊丸は舌打ちとため息を同時に吐きたい衝動に駆られたが、いかなアクロバットを用いても叶いそうにないので仕方なく両方飲み込んだ。
「ちょっと足痛くて」
「そうか」
「それだけですか」
「医者には診せたのか」
それだけかよ、と結局菊丸は思う。手塚の性格はわかりきっているので別にいまさらむかつきもしないが、薄笑いしたくなった。昨日兄ちゃんズとプロレスごっこしただけだからたいしたことはないのです、と言ってみた。そうか、と手塚はくり返した。
「むみ、えーと、無味乾燥ー」
「なんだ急に」
「って知ってる?」
「意味か? 内容におもしろみがない様子、だったか」
「さっすがあー」
手塚の頭上に次々にハテナが浮かぶのが実際見えるようだったので、菊丸はすこし満足した。このあいだ宿題をしていて辞書を引いたとき、たまたま目についた言葉だ。手塚っぽいなあと思ったので奇跡的に忘れずにいた。
手塚は訝しげに眉を寄せたまま、菊丸が馬乗りになっているベンチの空いた端のスペースに腰をおろした。菊丸の背には、窓からの日差しが当たってじんわりとあたたかい。風がよく通るせいか、練習の汗を冷たいシャワーで流したばかりの身体には、まださほど暑さを感じなかった(ちなみにシャワーとは水飲み場の水撒き用ホースのことを指す、菊丸桃城その他数名の場合。体育館の更衣室までいけばちゃんと本物のシャワーがあるが、何しろ遠くて面倒だ)。
「春っぽくない?」
「今日がか?」
「そう」
「八月だぞ」
「ですよね」
なにかがおかしいぞ、と気づいて菊丸はすこし笑った。会話の内容がおかしい。会話が続いていることもおかしい。しばらく忘れていたハサミをまた動かした。
「さっきから何をしているんだ」
「おまえと次なに話せばいーかって考えてんの」
「いや、何を切っているんだ?」
スルーかよ、とどんどん笑いたくなる。誰もが菊丸をマイペースと評するけれど、手塚こそその最たるものじゃないのか。
「桜つくってんの」
ピンク色の折り紙の束と、あまりうまくも細かくもない、単に雑に花びらっぽい形に切り取った紙片の入ったコンビニのビニール袋をがさがさ振って見せると、見慣れた手塚の眉間のしわが、その意味するところを若干変化させた。
「何に使うんだ」
「姉ちゃんがなんかの資格の試験受かったんだって。いままで何っ回も落ちてたやつでさ、だから今日の夜家族でお祝いすんの。オレ紙ふぶき担当」
「そうか。よかったな」
「うん。合格っつったらやっぱサクラサクじゃん?」
「そうだな」
おお、と菊丸はにわかにうれしくなった。手塚の同意を得たぞ。親兄弟にはわりとバカにされました、祝われるご本人様にまで「そこまでされるとちょっとひくんだけど。つーかあんたあたしになんか後ろめたいことあんの?」、祝い甲斐ねえー!
「ところで菊丸」
「はい?」
「おまえがそこにいると部室を閉められないんだが」
手塚はおもむろに、どこぞの偉いじい様の印籠みたいに部室の鍵を掲げて見せた。びし、と自分の額に青筋が浮いたのが菊丸にはわかった。
「鍵当番ごくろーさま!」
「大石は用事があるらしくてな。あとどれぐらいかかりそうなんだ?」
「誰かさんが手伝ってくれたら早く終わんじゃねーの」
「そうか、わかった」
ただの嫌味で八つ当たりだったのに、手塚はあっさり承諾すると、ロッカーからすらりとハサミを取り出した。菊丸はとりあえず最優先でウケてしまって、すっかり礼を言いそびれた。
「なにそれマイハサミ!?」
「ああ。左利き用でないと使いづらいんだ」
「もしかしてたくさん持ってる?」
「教室のロッカーと自宅にも置いてあるが。欲しいのか?」
「いや使い道ないし」
そうだな、とくそまじめにわざわざ頷いてから、手塚はハサミを持ってベンチに戻ってきた。手塚の切り出す花びらの出来は、意外にも菊丸の作とそう変わらなかった。丁寧さを心掛ければ、菊丸のほうが上手かもしれない。
「おまえわりと不器用な人?」
「その言い回しは好かないな」
「あっそ」
ピンク色の折り紙に集中したまま自分のこだわりを述べる手塚は、菊丸を変に安心させた。手塚国光という人間が自分と同じ場所、次元であり高さでありフィールド、に存在しているとはじめて理解できた。あんまり普通にわかってしまって、無意識だった。
「春のような気分になるな」
「今日が?」
「八月だぞ」
「ですよね」
「これがだ」
手塚のてのひらの上の安っぽいピンク色の花びらは、よく見れば結局は菊丸のものより整然たるバランスを保っていて、菊丸はすこしうれしくなくなった。
「やっぱ器用かも」
「そうか」
あれ、手塚、いま笑った?
2007.9.22
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