好きな人ができました。や、好みの人って言うべきかも、うん。ホレたと言いきってしまうには、まだ、
「恥ずかしい?」
駅のプラットホームでひとり呟いてみてから、我ながら意味の通じない物思いだなあと千石は首を捻る。最近俺の頭はちょっと変、何考えてるのかよくわからないまとまらない、「うるせーぞキヨ!」の罵声と電光石火のローキックがステキだった乱暴でキュートな女の子が、彼氏彼女になってみた途端レディに化けてくれちゃった並みの扱いづらさ。恋愛に関してはそこそこ百戦錬磨のつもりでいたけれどまだまだヒヨッコだったということか、それとも今回ばかりは相手が悪かったのか。何しろ、女の子じゃありませんから!
ざんねん! とかまた呟いているうちに電車がホームに入ってきた。黄色い車体が巻いた風は大きく膨れ上がってからパンと弾けて、千石の明るい髪を掻き乱す。
軋みながらひらいたドアからは誰も降りてこなかったのですぐさま乗り込もうとしたら、うしろから白ランの肘をつかまれた。驚いて振り向くと、微塵の罪悪感もなく咥えタバコの亜久津と目が合って、あれ一緒にいたんだっけと千石は思い出す。地味’Sじゃあるまいし(うわ暴言ごめん南東方)こんな悪目立ちバリバリの男の存在を忘れるなんてあり得ない、でもいまは例えロシアの妖精が隣にいたってうわの空になる、たぶん。
次の駅止まりだからもう一本待てと亜久津が意外にも堅実な提案をして、賛成した千石が足を引っ込めると、電車は心なしか冷ややかに車体を揺すって発車した。ホームの先頭付近にいるせいですべての車両が起こす風をダイレクトに食らい、必然的にまたさらに乱れ放題になった髪にあせあせと指を通していたら、実にどうでもよさそうに亜久津が言った。
「氷帝の跡部がどうかしたかよ」
「はい!?」
あまりにも唐突にあっさりと飛び出したその名前に、千石は果てしなく動揺した。ホームのふちに立っていたりしなくてよかった確実に転がり落ちる、騒ぎになる、ダイヤが乱れてン万人の足に影響で大損害で賠償金!?
「あああ跡部くん!? が何!? どうしたのなんかあった!?」
動揺の極みの不可解な産物、人身事故未遂の不吉な図式を頭の中に組み立てながら、千石は亜久津の胸倉をつかんで詰め寄った。喉元まできっちり留められていた白ランのホックがブチブチと危うい音を立ててひとつふたつとはずれ、何しやがるテメエ、と亜久津が怒鳴るよりよほど凶悪な低音で凄んで千石を突き放す。
「テメーでいま跡部がどうとか抜かしてただろうが」
「うそ知らないよ?」
千石が素直に驚くと、亜久津は糸が緩んでガタガタになってしまった上ふたつのホックを忌ま忌ましげに確かめていた目を上げ、不審げに凶悪に眉をひそめた。
「自覚ねぇのかよ気味悪ィな。さっきからブツブツ垂れ流してんぞおまえ」
「マジですか」
やば、こわー、と自らの両腕を抱いて大げさに身震いの真似ごとをして見せると、亜久津はひどく白けた顔で、タバコの煙とともにうぜぇと吐き出した。それきり彼の関心が脇を行き過ぎたガラのよろしくない他校生に逸れたのを見届けて、千石は密かに安堵の溜め息をつく。自分ですらまだ明確にそうとはわからずにいる恋心を、いきなり他人に暴露するところだった。かっこ悪いにもほどがある。
だけどこれってもう、自覚ないとかそういうレベルじゃないよね? 俺は跡部くんが好きだよね?
「うわ、好きなんだ!」
自分のことなのに相当びびってつい口走ったら、まだ生々しいファイトバイトを不吉に刻んだ亜久津のグーが(そういえば昨日だか近所の高校の連中と派手にもめたと聞いたような)寸分の狂いも手加減もなく脳天に落ちた。
「うぜぇってんだよ。黙れ」
「いだいー。あっくんひどいー」
「次そう呼びやがったら死なす」
さっきの礼とばかりに胸倉をつかみ上げられて、わーごめんしてギブギブと千石がマッハで降参すると、亜久津はあっさり手を離した。そんなに簡単に解放されるとは夢にも思わず、うげやばいもう一発ぐらい食らいそうこの至近距離でつかまってたらちょっとよけられませんてゆうか二発もらって黙ってる気はさすがにないよでもこの目立つ白ランでホームでマジゲンカってのはどうなのかな、とか早口で考えていた千石は、バランスを崩して一歩うしろによろけた。
一見いつも通りの物騒オーラ満載だが、どうやら本日の亜久津は機嫌がいいようだ。昨日死ぬほど、もとい殺すほど暴れたらしいからその反動だろうか。なんにしろラッキー、と呑気に見上げると、亜久津は線路二本を挟んだ対向ホームのほうを向いて片目を極端に細めている。なんて無敵の人相の悪さ。
「どしたの亜久津?」
千石も向かいのホームに目を移そうとすると、亜久津は短くなったタバコを、どこをめがけてか指で高々と弾き飛ばした。その軌跡を追うように向かいのホームを見た千石は、今度こそ心底無意識にぎゃっと叫んだ。すかさず警告なしに飛んできた亜久津の足刀を動体視力の賜物で華麗によけつつ、目は対向ホームに釘付けだ。これが叫ばずにいられるでしょうか。だって! 跡部くんが! いるんですけどあそこに!
脇腹にきた二撃目の蹴りを肘でガードして跳びすさり、千石はくるりと回れ右をした。
「ごめんあっくん続きあとでね!」
「死なすっつったろうが待てコラ!」
亜久津の怒声に背を押されながら一目散に階段をめざす。学生がケンカをしていると早くも通報がいったのだろうか、途中で駅員に声をかけられたが、足を止めることなく振り切った。
息を切らせて下り立った隣のホームに、跡部の姿は消えずにまだあった。夢まぼろしでもかわいそうな妄想でもなかったと千石は途端に幸せに包まれ、同時ににわかに緊張する。ホームの中ほどのベンチで文庫本をひらいている跡部は当然電車を待っているわけで、きっとあといくらも経たないうちにいなくなってしまう。だから早く名前を呼んで、気づいてもらって、ちょっとでいいから俺に構って跡部くん、だけど情けないな、足が竦むんだよ。
決してやわらかくない白ランの腹のあたりの生地を強く握りしめて、どうにか一歩踏み出したところで、跡部の隣に座っていた巨体が立ち上がったのに千石は気づく。樺地くんだ、ずっとそこにいたんだ、あんな大きな子さえ目に入らないなんてどうかしてる。俺の目は壊れてしまったんじゃないかな、跡部くん用の回路以外が全部ショートしてしまったんじゃないかな。
そのとき、千石の背後から電車がホームに滑り込んできた。跡部は至極当たり前にベンチをあとにし、電車のドアは当然ひらき、千石に気づくはずもなく跡部の横顔はオレンジ色の車体の中に消えて、
ガ、とホームの白線を蹴りつけて千石は走り出す。跡部のうしろから電車に乗り込んだ樺地が、直感なのか千石がまた無意識に何か叫んだのを聞き取ったのか首だけで振り返り、慌てたように前に向き直ったのが見えた、ドアは閉じた無情にも。
電車が動き出すのと同時にドアに追いついた千石の目は、まっすぐに、ドアガラス越しの跡部の目とぶつかった。驚きと呆れを半々に浮かべた跡部の顔にはありありと、何やってんだおまえいたなら声ぐらいかけろ、と書いてあって、皮肉っぽく吊り上がった唇が、バーカ、と聞こえない言葉を刻んだ。
千石はへらりと笑い、足を止めた。跡部の姿は数秒ともたずに視界の外に連れ去られ、為す術なく視線をさまよわせた線路の上で、亜久津の捨てた吸い殻がひどく目についた。
どうしよう、いつ始まったかさえ俺は知らないのに。ファイブ、フォー、スリー、トゥー、ワン、
これが恋でなくてなんだ。
2005.3.12
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