崖っぷちモーニング
足腰立たないとはこのことだと身をもって実感する日がまさかくるとは、跡部は本気で逃げたくなった、宇宙の果てまで。しかし慈郎が言っていたほど最悪な有様ではないようだ痛いというよりはひたすらだるい、重い、あの脳天気チャンピオンみたいな男が、俺は女じゃねぇんだよどんだけ気ィ使う気だてめえうぜぇぞと、まだ服の一枚すら脱がないうちに怒鳴りたくなった、ほど、跡部を優しく丁寧に扱ったから? 考えて跡部は羞恥のあまり死ねると思った、いますぐベッドの上で。
慈郎が言うには、もー俺マジで死ぬかと思ったもん腹痛くなるし気持ち悪くなるし歩くんだって大変だったんだから、は? ケツなんて痛ぇに決まってんじゃ、だ・ま・れ・じ・ろ・う、と額に青筋を立てた宍戸が凶悪な重低音で遮ったので、そこで慈郎の告白は終わった。あのときは心底慈郎を軽蔑、というより彼が何か不可解な生き物に化けたような気がして途端に接し方すら見失い(たぶん相当に混乱したのだ慈郎の相手は誰なんだとか、男同士でセッ、あり得……!)その日はそれ以降慈郎とは口をきかなかった。
その日っていつだ、と突然一日のズレも許さず正確に思い出したくなって懸命に記憶を辿る跡部の隣では、鼻先まで布団に埋まった千石が、閉じたまぶたの表情だけでそうとわかるほど平和に幸せそうに眠っている。千石がこのまま二度と一生目覚めなければいいと跡部はなかば本気で願った。本音としては千石が起きる前にさっさと逃げてしまいたいのだがここが自分の部屋であるのが却って都合が悪く、千石の部屋でやりゃよかったんだ、でもこいつの部屋には確か鍵がない、つーかそういう問題じゃねぇだろいやとりあえずそういう問題だ鍵は重要だよな?
どうしようもなくくだらない自問自答に優秀な頭をもったいなくもフル稼働させ、慈郎が部室で平然とおそろしい話題を口にしたのがいつだったかなんてさっぱり思い出せないうちに、いまもっとも起こって欲しくない事態、千石が小さく唸って身じろぐ素振りを見せた。
跡部は思わず息さえ止めて硬直する。至近距離にある千石の乱れたオレンジ頭がもぞと動き、まぶたが微かに痙攣した。なんだって俺はこいつと顔を突き合わせちまってんだせめて背中を向けておけバカ、と跡部はたぶん生まれてはじめて自らをバカと呼んだ。
しかし跡部の動揺も羞恥もあり得ない速さの鼓動もある種の投げやりな覚悟も裏切って、いや応えて? 千石は目を覚まさなかった。身体半分ほど跡部のほうに寄って二人の隙間をほとんどゼロに縮めたけれど、それきりまたぐうぐうと呑気な深い寝息を立てるばかりだ。
安堵と、驚かせんじゃねぇよという悔しまぎれの怒りを抱えていたたまれなくなり、布団の中でわずかに足を動かすと、膝頭にやたら冷たい千石のたぶん足の裏が当たって、跡部は危うく声を上げそうになった。なぜそんなところに足の裏がと首を起こして見れば、布団の凹凸具合から察するに、千石はどうやら胎児のようにしっかりと身体を丸めている。おかしな寝相だ、却って筋肉が凝りはしないのだろうか。
寄ってきたときに布団がずれて顔が完全に外に出た千石は、相変わらず間抜けと紙一重の至福面をさらしていて、薄くひらいた唇をときおり閉じてはむにむにと動かしたりしていて、まるでガキだなと思うと同時に跡部は現金にすこしだけ余裕を取り戻した。
千石の冷たい足先が気になって、膝に触れていた片足だけでもと、自分のふくらはぎのあいだに挟んでやる。ものすごく座りが悪いし骨が当たって痛いので五分経ったら放り出そうと薄情に思いながら、布団の中で今度は手を探す。見つけた指先も冷たかった。昨日の夜はわからなかった、余裕がなかった。それとも跡部を抱きしめているあいだはその手は熱かったのだろうか。
千石の手を握ったままじっとしていると、徐々に眠気に襲われた。まどろむ寸前で千石がふいに目をあけたのを、いやというほど間近で見たけれど、咄嗟には何も反応できないほどすでに頭が働いていなかった。
無言のまま瞬きすらなく見つめていると、千石はすこしばかり不思議そうな顔をしたあと、まだどこか寝ぼけた瞳でひどく無防備に笑った。
「跡部くん、あったかい」
あまりにもやわらかく千石が目を細めるので、普段のアホ面が影も形もないので、握った手を、ひんやりと握り返してくる、ので、
「ありがとう」
嬉しそうに笑う彼に、バーカ、としか跡部は答えようがない。ひどいなあ跡部くん、とくすぐったそうに呟きながら千石は跡部に挟まれていた足の位置を都合よく変えて、今度は自分が跡部の両足を絡め取るようにする。その足も握る指先の体温もまだ頼りなく、早くあたたまればいいのにと跡部は思った。
動揺から覚めてみれば確かに思い出せる昨夜の千石の熱が恋しいと思った、けれど、実はまだ存分に寝ぼけていた千石がきちんと覚醒し、ぎゃっ跡部くん!? と奇声を発したのち飛び起きてベッドの上で三つ指ついて正座して、昨日は大変お世話になりました結構なお点前でした! とか素っ頓狂なことを言い放ってすべてをぶち壊すまでの地獄のカウントダウン、あと五秒。合掌。
2005.2.21
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