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 青学の手塚という化け物がジュニア選抜メンバーを辞退した。という話と一緒にその空席を埋めないかという誘いが転がり込んできて、千石は二つ返事で引き受けた。実力半分の繰り上がりというのが微妙なところではあるけれど、青学の手塚くん、都大会でこてんぱんに負けました、うん、彼の代理なら文句はないよ。
 そんな一種誇らしい気持ちで参加した強化合宿ではしかし、合宿所までの送迎バス乗り場で顔を合わせた氷帝学園の某有名人に、面と向かうのも口をきくのもはじめてだったというのに、いきなりの不機嫌面と舌打ちと「手塚じゃねぇのかよ」という刃物みたいな落胆の言葉を見舞われた。噂以上に偉そうだなあ結構あり得ないレベルだなあと思ったけれど、合宿参加者同士で当然ゲームはするだろうし、そんなに手塚くんと対戦したかったのかと察してみれば素直な人だなあという気もして特に怒りは感じず、代わりにむくむくと興味がわいた。
 うん、きみに興味がありました、跡部くん。
 都大会での氷帝の試合、男テニ部員オンリーの華もかわいげもない耳障りな氷帝コールに辟易しながらも、一般生徒応援団の中にかわいい子がいるのを期待してスタンドに紛れ込み、なんとなく目をやったコート中央でド派手なパフォーマンス中の激美人(でも野郎)、うわー何あれと引きかけたのも束の間、千石は食い入るように彼のプレーを見つめていた。
 自分が対戦しているわけでもないのに鼓動が速くなった、てのひらに汗が滲んだ、喉が乾いた。明らかな格下を相手に油断がない。容赦もない。あっという間に勝利をつかんで不敵に笑う顔、けれど千石の脳裏に焼きついて消えないのは射抜くようにボールを見据える目、インパクトの瞬間に雷火にも似た力を宿すその瞳。うそ、俺の膝震えてる? 彼のプレーを見ていただけで。
 その跡部くんと友達になれるかもと浮かれたものの、どうやら初っ端で嫌われた。出会い頭のひどい言われように対し、「俺手塚くんと対戦したことあるよ」と自慢げに返してしまったのが原因だろう。跡部は心底おもしろくなさそうに「負けただろうが」と吐き捨てるとプイとバスに乗り込んでしまって、合宿所に到着したのちのメンバー顔合わせ、ミーティング、初日の練習をこなして夕方になったいまでも、千石は跡部といまだお近づきになれずにいた。
 大部屋という名の同室なのでそのうちいやでも顔を合わせることになるのだが、思い立ったが吉日の超行動派千石清純、「そのうち」なんて待っていられない。合宿所へと引き上げる集団から抜け、解散直後に見失ってしまった跡部を探し歩くことわずか一分、閑散としたテニスコート脇のベンチのひとつにその姿を発見した。ラッキー。
「あっとべくん! 隣いい?」
 ひらひらと片手を振りながら尋ねると、跡部は手元のバインダーに落としていた視線を上げた。微かに目を細めたのは、千石が背負った西日が眩しかったせいだろう。色素の薄い彼の瞳が一瞬オレンジ色に燃えたのを見て、千石は微細なガラス片がいくつも背骨を抜けるような熱と痺れを感じた。なんだろう?
「なんで俺に訊くんだよ。勝手に座れ」
「それじゃお邪魔します」
 跡部が起伏のない声で投げやりな答えを寄越すが早いか、千石はベンチに腰を下ろした。本当はぴったり跡部の隣にくっつきたかったのだが(って、あれおかしいな、跡部くんは別にかわいい女の子じゃないのに)、ベンチ板は横長と見せかけて実は思いきり一人掛け使用に区切られているし、おまけになみなみと水の入ったペットボトルを跡部が自分の横に置いていて、仕方なくそれをよけた分距離は離れた。
「何見てるの?」
 千石は首を傾げ、邪魔なペットボトルの脇に手をついて身体を傾けて、跡部の持っているバインダーを覗き込もうとする。と、その紙束の正体を見極める前に、予定表、と短い言葉が投げ返された。
 明らかに溜め息混じりだったのが気になって、千石は跡部の横顔を見つめる。まだ引ききっていない汗が西日に微かにきらめきながら、前髪をひと筋、形も肌もきれいなその額に張りつけている。
「跡部くん疲れてる?」
「疲れてねぇよ」
「今日の練習まだそんなにきつくなかったよね」
「だから疲れてねぇって」
 跡部は横目で鋭く千石を睨んだ。重ねて何か反論しようとしたようだったが、千石の神妙な顔に珍しく調子を狂わされたのか、小さく舌打ちをして視線を地面へ落とす。ベンチの背凭れと自分の背中のあいだにバインダーを置き、組んだ膝の上に片手で頬杖をつくと、千石を見ないまま声を低く尖らせた。
「Aコートの俺と同じ班にいた二人組わかるか、白いキャップのとそれと一緒にいたやつ」
「あ、うん、三年生だよね。どこの学校だっけ確か」
「あいつら球出しのとき、俺にだけ失敗球みてぇなのばっか寄越しやがって。全部拾って決めてやったけどよ、ほかのやつの倍は走っちまった」
「何それ、いじめじゃん!」
 千石が叫ぶと、跡部は喉の奥で短く笑った。ゆるく吊り上がった口の端と、伏せられていても力を失わない瞳が、くだらねぇと雄弁に語っている。慣れているのかなと千石は思った。妬まれる要素なら、それこそ腐るほど彼にはあるだろう。望まずに生まれ持ったそれらに飲まれることなく、むしろより磨き上げながら振るう才をも持ち合わせていた跡部、その完璧さはときに致命的な負担になりはしないのだろうか。
「コーチに言いなよ」
 おそらく大した解決にはならないだろう千石の精一杯の助言を、跡部は鼻で笑い飛ばす。それが強さなのか受け入れたあきらめなのか判断がつかず、千石はペットボトルを倒してしまいそうなほど跡部のほうに身体を寄せた。
「俺、結構ケンカ強いよ。跡部くんの味方するよ」
 限りなく本気で提案すると、跡部は先ほどまでの冷えた笑みとは目に見えて温度の違う口元のほころばせ方で、バーカ、と愉快げに吐き出した。
「問題起こしてどうすんだ。テニスで返しゃいいんだよ、テニスで」
 ああ強さなのだと、千石はわかった。望まずにつくった敵をすべて真正面から正当になぎ払い、折れずにまっすぐにここまできた。やばいぐらいかっこいい人なんじゃないの、跡部くん。
 ぼけっとその横顔に見とれていたら、跡部が突然千石のほうを向いた。かと思ったらうおっと叫んで身を引いたので、千石も驚いてものすごく前のめりになっていた身体を起こす。その拍子に手を引っかけてペットボトルを倒した。申し訳程度にしか閉められていなかったらしいキャップがあっさりと弾け飛んで、水は悠々とベンチの上にこぼれ出し、ミニチュアの滝になって地面に注いだ。
「何やってんだてめ、つーか顔近ぇんだよ!」
 跡部が怒鳴るあいだに千石は素早くペットボトルを救出し、被害の拡大をどうにか食い止める。地面に飛び散った水は二人のテニスシューズを濡らしたが、ベンチの表面でゆらゆら揺れる水溜まりは危ういバランスながらもそのままおとなしくなり、千石は胸を撫で下ろした。ペットボトルの水は三分の二ほどに減った。
「ごめんね、跡部くん男なのにきれいだなあって思ったらちょっと見とれちゃって」
「キモいこと言ってんじゃねぇよ」
 跡部は気味悪そうに千石を見たが、すぐに気を取り直したらしく、あの勝ち試合のあとに見せたものより数段凄みのある、凶悪なのに気高さも失わないという尊敬すべき複雑で不敵な笑みを浮かべた。
「まあ、明日のメニューにはスマッシュがあるしな。やつらも黙るだろうぜ」
「どういうこと?」
「いいから見とけ」
 うん、と千石は大げさなほどに素直に頷いた。きみを見ていようと思うよ、跡部くん。
 跡部のすべらかな頬を残照が焼いている。断る必要なく彼に触れられる光を羨ましいと、千石は埒もなく思った。見上げた空の赤にはもう紫紺の闇が溶け入り始めている。金色に縁取られた輝く雲は合宿所の屋根の向こうに押し流され、剥がれ落ちたかけらだけを足跡のように点々と残すばかりだ。
 あっためてんじゃねぇよと唐突に跡部が文句をつけて、千石は両手で抱えたままだったペットボトルの存在を思い出す。揺れる水も千石の指先も、跡部の頬のように燃えている。
「もらってもいい?」
「ああ」
 千石は暮れゆく空を仰ぎ、すべて飲み干す勢いで乾いていない喉に水を流し込んだ。透明な水にもちゃんと不透明な水の味がついているはずなのに、何も感じない。半端な冷気と重みだけが、舌を喉を洗って腹の底へと落ちてゆく。飲み口から唇を離して確かめると、水は残りわずかひと口分ほどに減っていた。
「あと飲んじゃってよ」
 自分のもののように言って、千石は跡部とのあいだにできた水溜まりの中にそっとペットボトルを返す。水溜まりは静かに震え、微かに膨脹した。跡部は特に気に障った様子もなく、ああ、とまた短く答えたがぼんやりと空を見上げたまま脚を組み替えただけで、ボトルに手を伸ばそうとはしない。
 跡部が残りを飲み干してくれれば空のペットボトルなんてどこにでも放って、俺はきみのすぐ隣に行けるのにと千石はひどく急いた気持ちになる。だけど困ったな、さっき自分でこぼしてしまったこの水が、どこまでも涼しげに邪魔をする。

 

 

 2005.2.21
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