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 きみの誕生日に俺は特別なこと何もしないよと言ったら、彼は別段怒りもせずわけも問わずもちろん落胆だってせずに(そんなことありえないって知ってたけどほんのちょっとだけ期待をしてた)、日本語ではない文字で綴られた物語に没頭し伏せていた目を上げて、うつくしい無表情でただひとこと、賢明だ、とほめてくれた(のかな? あんまりうれしくない)。
 言葉の意味は、彼の誕生日当日に否応なく知った。朝の登校時間に合わせてこっそり彼の学校を張っていたら、彼は正門に差しかかるなりそこらのアイドルスター顔負けにどっと女の子に取り囲まれて、盛大なプレゼント攻勢にさらされていた。律儀にひとつずつ受け取っては背後に控える図体のでかい後輩の持つ特大の紙袋に収めていくさまはかなり本格的にスターとマネージャーのよう、だけどスターならそこでとびきりの営業スマイルを見せてあげなきゃ、マネージャーさんもそんなもんじゃ準備が甘いリヤカーの一台くらい用意しておかなきゃ。なんて、一種感動を覚えつつも注文をつけたりしているうちに、彼は華やかな人垣ごと正門を抜けていった。
 正門の側の木陰を離れて今度は門の塀に隠れて様子を窺うと(ストーカー? はいはい結構ですとも、おおいにそう呼んでちょうだいよ)、女の子たちの輪と隣り合って彼と親しいテニス部の友人が三人ほど歩いていて、ひとりはひどく身軽にぴょんぴょん跳ねて輪の中心を覗こうとし、ひとりはまるで興味を示さず伊達と噂高い眼鏡を直しながらそっぽを向き、もうひとりは最初こそニコニコと楽しげだったもののすぐに飽きたように大あくびをくり返したりなどしながら、やがてひと足もふた足も先に校舎のほうへ去っていった。彼らの声が彼に届かないなら、それ以前に彼らですら声をかける隙もないのなら、この正門をくぐる資格を持たない突破する知恵も力も足りない分際が何を叫んだって伝わるはずがない。
 女の子のエネルギーっておそろしい。あんなに細くて小さくてかわいい彼女たちにあそこまでのパワーを出させる彼はもっとおそろしい。あたって砕けるのがこわい弱虫は、しっぽを巻いて退散するしかありません。
 近づかねえほうが賢明だぜ、負け犬。きみはそう言いたかったのかな、跡部くん。
 そのうち彼も騒ぎを引き連れたまま校舎へと消えていってしまったので、仕方なく本来いくべき自分の学校へ向かった。当たり前だけれど大幅に一時間目に遅刻した。つき合い始めて今日で一ヵ月と確か四日、毎朝いっしょに登校しているゆみえちゃんが、あたし今日すっごい待ったんだけどとむくれて問いただしてくるのは当然の権利、うんごめん、ちょっと誕生日の友達がいてさ、本当のことを言ったのにそれは最高にへたくそで不自然極まりない言い訳に我ながら聞こえた。
 なにそれ意味わかんない、その子に会いにいってたわけ? その子、という言葉の選び方をするゆみえちゃんが相手を女の子と勘違いしているとすぐに気づいたけれど、正す気が起きなかった。(ごめん、めんどくさい)なんで朝から会いにいったりすんの、おかしくない?(めんどくさいな)メールですむじゃん、友達なんでしょ、ただのともだちなんでしょ、(ごめんね、なんだかすごくめんどくさい)
 聞いてんのキ、ごめんゆみえちゃん別れよっか、ヨなに言ってんのふざけ、別れてお願い、ないでやだ意味わかんないや、お願いします、だやだやだなんでうわああああん。
 ゆみえちゃんの泣き顔はくしゃくしゃだったけれどまだ十分かわいいと思った。これで向こう一週間は、キヨ最低! と女の子たちの非難の的になること請け合いだ。教室のど真ん中であれはどうかと思うぞと、あとで南にもたしなめられた。うん、わかってます、反省してる、ゆみえちゃんは何も悪くないし俺だってやましいことなんてひとつもしていなくていまなら後戻りもきく、のに、どうしてこんなにめ んどう な、ん、
 昼休みの途中で学校を抜け出した。どこにいこうか考えながらのろのろと歩いた。今年の夏はとても暑くて九月なかばをすぎても地方によっては普通に真夏日が続いていたりして、街に秋めいた気配はまだろくに感じられない。十月に入ったばかりの一昨日も日中の気温が三十度を越え、当たり前にクーラーをつけてしまったし蚊に食われたし、ほんの数回ではあるがセミの鳴き声すら聞いた。
 秋がくるたびに通るのが楽しくなる団地と公園のあいだの道も、さっぱり味気なくてまるで心が躍らない。金木犀の香りがしないのが、こんなにがっかりすることだったなんて。
 昨日は雨が降ったせいで急に涼しくなったけれど、今日の早朝にはぴたりとやんで空はよく晴れ、濡れた地面もすっかり乾いている。同時に気温もまた上がり、夏服から冬服への移行期間に入って数日がたつが、冬服を着ている生徒をまだひとりも見かけない。
 空を見上げると、無作為にちぎり取った綿花みたいな雲をいくつか浮かべた眩しい青の中を、高く鳥の影が横切っていった。とてもきれいな青だけれど目には映らない厚みと滴るような熱を秘めている気がして、清々しくてすこしだけ寂しい秋の空とは別の光景だと思えた。十月という名の、夏の終わり。
 ぼんやりと上を向きながら歩き、電車の窓からも空ばかり見て、気づいたら(これは嘘です、だってちゃんと目的地を決めて切符を買った、何も考えないでいたら俺の指はたぶんいちばん安いボタンを押しちゃうしそれじゃあここまではこられない)彼の家に着いていた。
 まだ学校は終わっていないから彼がいるはずはなく、仕方ないので門の脇にしゃがんで(待つ? なんで? そういえば何をしにきたんだっけ、あれ、俺は数日前きみに何か宣言しなかったっけ?)待つことにする。
 お屋敷と呼ぶのがぴったりの彼の家の前でひとりしゃがみ込んで膝を抱えていると、自分が急に小さく、身体も頭の中身もとても小さく、こどもに戻ったような気分になった。門の両側にのびる長い塀はいったいどこまで続いているんだろう。さっき通ってきた曲がり角がどこかに消えてしまったように目に入らない。
 こんな都会のど真ん中でありえないけれど、お屋敷の裏には底の見えない静かな湖を抱えた深い森が広がって、夜になればふくろうの鳴き声が響きキツネや野ネズミの目がひかって風がごうごうと騒いで、それはとても寂しくて、こわい、ような気がする。早く帰ってこないかな。はやくかえってきて。
 夕方、彼がひとりで帰ってきた。すこし意外に思って目を丸くしていると、鏡みたいに彼も同じ表情をした。あれ、みんなで誕生日パーティーとかやらないんだ? 何やってんだおまえ。お互いの質問がぶつかって、答えを返すタイミングをはかるあいだに、彼はわずかに舌を覗かせて唇を湿らせた。
「俺の誕生日には何もしねえって言ってなかったか」
「(あ。そういえばそうだった)おかえりなさい。きみを待ってた」
「なんもしねえって抜かしただろうが」
「ひとりなんだね。芥川くんたち呼んで派手にお祝いとかするのかと思ってたよ」
 平行線の成り立たない会話(っていわないよねこれは)を続けても、珍しく彼は怒り出さなかった。日に焼けにくいのだという白い腕ときれいな頬に、オレンジ色の夕日があたってなめらかにひかっていた。
「入れよ」
 重厚で立派でその実軋みひとつ上げず滑るように動く大きな門をあけ、彼が言う。首を横に振って黙って断ったら、はじめて訝しげに、それとも笑おうとしたのだろうか、彼は唇の片端をかすかに震わせた。
「入れって。茶ぐらい出してやるぜ」
「でも今日は何もしないって決めたんだ」
「じゃあなんでここにいんだよ、あーん?」
 彼の唇の端がまた歪む。苛立ち始めているのか嘲笑しようとしているのかわからない。わからな
「俺ね、」
 思い出した。んじゃなくて、いまわかった。
「今日、きみのために、何もできないって思ったんだ」
 彼は驚いたように一瞬目を見ひらき、それから門の鉄格子を握る長い指に逃がすように視線を移し、ゆっくりと言った。
「そんなことは、ねえよ」
 またこっちを向いた顔にはもう驚きの色はなく、ふいとえらそうに首を傾けて、入れと再度、今度こそ問答無用の目をして命じた。なんて甘い人なんだろう。そうやって俺を甘やかす、きみの誕生日なのにきみがプレゼントをくれてどうするの。
 立ち上がり、一歩あとずさったら、彼は途端に表情を険しくした。怒った顔もきれいだなあなんて安い恋愛ドラマみたいなことを本気で思う、反面、ちゃんと後悔だってしてるんだ。そんな顔ばっかりさせてごめん。ああいやだ、いやだ、かなしくなりたくないから、どうかめんどうなんだとごまかさせて。
「きみんち、肩がこるからまた今度。ありがとう。あと、おめでとう」
「おまえ、どうしていつもそうなんだ、千石」
「きみが生まれてくれてうれしい」
「何もできねえと思うなら、口もきくな」
 がしゃんと乱暴に門を閉め、その内側を彼の背中が去っていく。とてもゆっくり歩いていく。鍵をかけずにいった。追いかける勇気を。つけ上がらせないでよ。大きなこの門は簡単にあく。いっそ息もするなと言って。

 

 

 2005.10.7
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