「なあァに遊んでくれてんだコラ!」
趣味の悪い白い学ランが目の前で怒鳴った。醜い声で意味のない言葉で、聞いてはいけない耳がけがれるから、と慈郎は思った。
白ランの拳が飛ぶより早く慈郎はゴム毬みたいに跳ねて、相手の鳩尾めがけて手加減なしで膝を叩き込んだ。不細工な呻き声を唾液と一緒に吐き出し、白ランが呆気なく膝を折る。ざまあみろ。
特別言うほど強いわけではないけれど、慈郎は喧嘩で負けたことがあまりない。相手が慈郎を軽く見るからだ。小さいし、頭はチャラチャラふわふわと黄色いし、いつも眠たげで動きも愚鈍。それは誰もが知っている普段の慈郎の姿で、とても正確で正解だ。
しかし、テニスの試合中に寝る人間がいないように、喧嘩の最中だけは慈郎は起きる。自力で、素早く、必ず起きる。筋力も体重もさほどないから拳はおよそ武器にならないが、ちょこまかと予測しがたい動きの合間から執拗にくり出される足技にはいやらしいまでの威力があった。
ヒットアンドアウェイを基本にテニスで培った体力にものを言わせて長期戦もなんのその、隙あらば相手の鼻面に回し蹴りというようなえげつないやり口が慈郎の得意とするところだったが、大抵の相手は初っ端から隙見せ放題の出血大サービスなので、勝負は早々につくことがほとんどだった。
いまだってそう。アーケード街の脇道でアスファルトに這いつくばって身体を丸め、惨めったらしく咳き込むばかりで一向に起き上がる気配のない白ランを見下ろし、慈郎は不快感もあらわに眉をしかめた。
つまらない、なんて喧嘩をスポーツと気取った青春殴り合い漫画みたいなことは思わない。喧嘩なんてさっさと終わらせるに限る、テニスとセックス以外で汗を流したり疲れたりするのはとても嫌い。
白ランの脇腹と背中の一部には、まだまったく乾いていない鮮やかな緑色の染みが広がっている。慈郎の飲んでいたクリームソーダがこぼれてできた汚れだった。
学校近くの人気のアイスクリーム店で跡部に奢ってもらったテイクアウトのクリームソーダを抱え、幸せ真っただ中で帰宅中だった慈郎に、この白ランがすれ違いざまにぶつかってきたのだ。わざとではなかったのだろう、しかし結果、まん丸いバニラアイスを食べ終えたばかりでまだたっぷり残っていたメロンソーダの半分ほどが容器から飛び出し、白ランの上着を汚した。
当然白ランは音速でキレたが、慈郎も光速でキレた。白ランが振り向くより早く、慈郎はメロンソーダの残りをスプーンと容器ごと彼の背中に投げつけ、口に咥えていたストローを路上に吐き出した。そうしてあとはお約束、「なあァに遊んでくれてんだコラ!」となったわけである。
(あーあ、もったいね)
ぶつかった拍子に自分の手にもこぼれたメロンソーダの滴を舐めながら、慈郎はどんどん不機嫌になる。あの店のアイスはどれもうまいけれど、比例して値段も高い。カップアイスひとつで四百五十円、クリームソーダは六百円もする。自分の小遣いではとても賄えないから、食べたくなったときには、慈郎はとりあえずいつも跡部にねだってみる。
しかし跡部は、自分の持ち金は両親が稼いで与えてくれたつまるところは親の持ち物だと正しく理解していて無駄遣いを嫌うので、たかりは失敗に終わるのが常だ。それが今日は珍しく成功したというのに(ちなみに成功の理由は慈郎がフルタイムでしかも居眠りなしに部活に出たから、そんな当然のことに褒美を出すなんて結局のところ跡部も甘い)。
(ついてねぇー)
左手の親指を咥え、爪のあいだに染み込んだ甘い滴を意地汚く味わいながら、慈郎はうんざりと鼻から大量の空気を押し出した。メロンソーダについてだけの感想ではない。いまだにダンゴ虫みたいにうずくまったままの白ランの向こうから、同じ制服姿のガラの悪いのがさらに二人やってきたのに、目敏く気づいてしまったのだった。
新しく現れた二人組のうちの片方がダンゴ虫の白ランに駆け寄り、荒い声で名前を呼んだ。慈郎にはまったく興味の持ちようのないことだったので、その名前は羽毛の先でくすぐるほども鼓膜を震わせはしない。
「テメエがやったんか、あァ!?」
やったがどうしたごるあ、と宍戸の真似でもしてみようかと慈郎は思ったが、火に油で面倒なのでやめた。何も答えないまま二人と一匹(だってダンゴ虫だから)の白ランから目は逸らさずに一歩足を引いて、逃げる準備をする。三対一はさすがにご免だ。
跡部も宍戸も肝心なときにいねーし、と臆面もなく恨みがましく思う。宍戸はケンカが強いし跡部はケンカだけじゃなくてほかにもいろいろ強いからきっとどうにかしてくれて、そしたらいま逃げるのはあいつらのほうになって俺は無駄に走って疲れたりしなくてもすむのに。
逃げ損ねる可能性にもいちおう目を向けて、あいつら足遅そうだからへーき、と簡単に切り捨ててせーので回れ右をしようとしたとき、後ろからふいに肩をつかまれた。跡部かもと都合よく期待するのと、白ランまた増えたんじゃねーのやべ、という現実的な危機感が心中でぶつかり合って反応がわずかに遅れた、そのあいだに、慈郎の肩に手を置いたままひょいと背後から目の前へ移動してきたのは、あー最悪、やはり白ランだった。
(あーもーマジついてねー殴られんのとかすっげーヤなんだけど!)
いまだにヘタな余裕があるのかひらき直りなのか自分でも判然としないままに、肩の手を振り落としもしないで慈郎はがっくりと首を垂れ盛大に溜め息をついた。とりあえず先手必勝、この肩の手をつかんで逆に動きを封じて一発殴ってその隙に逃げられっかな、とあまり賢くない計算をして顔を上げると、四人目の白ランは慈郎なんてまったく見ていなくて、三人のお仲間のほうに呑気な表情を向けている。
真っ白な制服に映える手入れに気を使っていそうなムラのない明るい茶、というよりほとんどオレンジ色の髪で、人好きはしそうだけれど締まりのない顔で、その癖目があまり笑っていないぼうっとしているわけでもない軽々しくもない。
「千石じゃねェか、なんだよ」
威嚇然とした目つきと声で白ランのひとりが唸ったが、オレンジ頭は動じる様子もなくへらりと笑って(だけどどうしてもやっぱり瞳の底が笑っていないように慈郎には見える)軽薄とお愛想の中間みたいな緩やかな声で言う。
「うん、別になんでもないんだけど。やめといたほうがいいと思うよ?」
「あァ? 邪魔すんじゃねェよ消えろや!」
「この子ねぇ、亜久津の友達だから」
馴れ馴れしくぽんぽんと肩を叩かれて、自分のことかと慈郎は気づく。あくつってなにと思いながら見上げればオレンジ頭は相変わらず慈郎を見ていなくてつくりものみたいな目、声、なのに明確な体温と感情を感じさせるなんだこのアンバランスな男は。
「あっくんてああ見えてアンティークなヤンキーだからさ、すごく友達大事にしてるんだよね。知ってた?」
オレンジ頭が朗らかにそう言い放ったあとの展開は、安いドラマとかでよく見るあれだった。覚えてやがれ、なんてバカのひとつ覚えみたいな捨て台詞を悪者が吐いて、先にやっつけられて伸びちゃってる仲間を引きずりながらみっともなく逃げていくあれ。違ったのは、慈郎が膝を入れたダンゴ虫も自力で立ち上がって逃げたことと、捨て台詞は皆無で忌ま忌ましげな舌打ちがあっただけ、白ランたちは潮が引くように静かに素早く歩き去った。
ダンゴ虫たちの行方に興味はなかったので、慈郎はまたオレンジ頭を見る。彼は白ランたちが退散していったアーケード街のほうを眺めながら、アンティークヤンキー、とまた呟いて、そのフレーズが気に入ったのかフフとひとり口元を緩めている。
「あくつってだれ」
慈郎が訊くと、オレンジ頭ははじめて慈郎を見て、実に気安い笑みを浮かべた。
「うちの学校の有名人。ものすごくケンカ強くて顔も怖くてねー」
「オメェはだれ」
重ねて訊きつつも、見たことがある、ような気がしていた。学校の有名人という言葉で当たり前に跡部を連想して、そうしたらピンときた。跡部が。いつだったか。こいつと一緒にいたような?
あ、と慈郎は声を上げた。思い出した。何か答えようとしていたオレンジ頭が驚いたようにまばたいて、口を半分ひらいたまま声だけを飲み込んだ。
「わかった。オメェ、やまぶきでしょ」
得意になって無遠慮にオレンジ頭を指差して、慈郎は言った。
写真の中で見たのだ。跡部が見せてくれたジュニア選抜合宿の集合写真で、跡部の隣でやたらニコニコしてひとりだけピースサインを出していたオレンジ頭のそいつを、そのとき眠気に負ける寸前だった慈郎の目はどうにか捉えて、なにこいつ、と訊いた。山吹、と跡部は確かまず答えて、ほかにも何か説明していたけれど、慈郎はそこで寝たのであとのことは知らない。
「うん、山吹中の千石です。きみは芥川くんだよね、跡部くんがきみのことよく話してたよ」
「跡部俺のこと好きだから」
慈郎が言うと、そうだね、とオレンジ頭は底の見えない優しげな笑い方をした。文句なしに気に食わなかった。急激にオレンジ頭に興味がなくなって、じゃーね、と歩き出そうとすると、リュックから突き出したラケットのグリップをちょうどいいとばかりにつかまれて引き止められる。
「芥川くんこれから予定ある?」
「帰って寝る」
「カラオケいかない? うちの女の子たちもいるよ、かわいいよ」
「跡部より美人でおっぱいでかくて声かわいくてバカじゃないんならいってもいい」
身もふたもない慈郎の要求に、オレンジ頭が苦笑した。ちょっとハードル高いかなあという答えを聞いて、慈郎はもはや一ミリの未練もなく歩き出す。ラケットを握って離さないオレンジ頭がそのままついてくるのでリュックの重さが一割増しでとても鬱陶しい。
「ついてこないでやまぶき、うざい」
「千石です。俺いまきみにすごく感謝されていい立場じゃない?」
「やまぶきが勝手にやったんじゃん、頼んでねーし」
「千石です。絶望的に自己中だね芥川くんて」
「オメェにしつこくラブホ誘われてキモいから助けてって叫ぶよやまぶき?」
脇道からアーケード街に入ったところで慈郎が足を止め、肩越しに振り返って片目で睨み上げると、オレンジ頭はさすがに頬を引きつらせて手を離した。弱々しくとも駄々っ子を見るともつかない妙に穏やかな目をして、
「千石だってば」
困ったようにまた笑った。せんごくってなに、と慈郎は思ったけれど面倒なので訊かなかった。オレンジ頭から視線をはずしてアーケード街の雑踏に紛れればすでに何事もなかったような気分になってあくびをした慈郎の後ろで、
「今度遊ぼうね芥川くん! 跡部くんにもよろしく!」
あそばねーよよろしくしねーよと慈郎は思ったのに、振り向いてしまったのはどうして。オレンジ頭に白ランの目立つ男が大きく手を振っているさまは悪くないと、乾いた気持ちで、けれど嘘偽りでなく思ったのはどうして?
鼻の付け根にしわを寄せて思いきりあかんべーをして見せると、オレンジ頭ははじめてあからさまに不満げな顔になって冷たい口元の歪め方をしたけれど、オメェが俺にそんな顔する権利はねぇよと慈郎は思う。彼はいま、慈郎の中で間違いなく優遇されていた。
何ヵ月も前に、それも眠り込む寸前に見た顔と聞いた名前を慈郎が思い出したなんて、水もなく育つうつくしい花みたいな奇跡だと知れ。
2005.4.1
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