肉体も思考も疎ましいほどに日々重たくなるばかりの幸村からすれば、仁王雅治という人はひどく身軽であるように見えた。
 彼からはなんの色も、においも、息づかいも体温も過去も欲望も感じられない。厭世感と楽天主義を使いわけるかのような軽薄さ、あるいは稀なる強靱な精神、あるいは黄身も白身も流れ出してしまった不安定な殻だけの卵。あまりにも持たざる空っぽの身は空をも飛べそうだとふと本気で想像したりもするが、そのために唯一必要な翼も、彼はまた平然と捨ててしまうのだろう。
(きみはひどい人間のような気がする)
 誰に話すでもない心の内だけの幼稚な妄想だとしても、仁王の人格を貶めるのは幸村の本意ではない。けれど、身を蝕む病の確かな存在、大切なものを近く失うかもしれない焦燥と恐怖は、勝手な嫉妬や羨望を果てしなく膨らませた。
 仁王はなんでも持てるのに、面倒だと捨てている気がする。失うことを惜しまないその贅沢さと薄情さに、幸村は時折身の竦む思いがする。彼は何を、誰を、どこまでを捨ててよしとしているのだろうと計ろうとしては絶望する。
 仁王にはきっとわからない。きみ、絶望なんてとっくに捨てて持っていないだろ?
「持っ、とるんじゃなかろか」
「頼りないな」
「ろくに使わんき、どこしまったかわからんようになったがよ」
 昨日ぶりに見舞いに訪れていた仁王は、悪びれる様子もなく眠たげにそう言った。歴史の教科書のことだ。今年度から三年の受け持ちに加わった古参の社会科教師は、確かに教科書をほとんど使わず自作の資料で授業を進めるが、それにしたって教科書が所在不明だなんて真田風に言うならたるんでいる。
 仁王はもともと、教科書だの辞書だのを授業のギリギリ一、二分前になってから借りにくることが多い。不真面目なのは間違いないが、借りにくるということは手ぶらで授業に臨むのをよしとはしていないわけで、けれど授業中にはまったき居眠りの常習であるというバランスの悪さ。らしいと言えばらしい、けれどそもそも、彼らしさとはなんだ。仁王雅治という人物の中身をつかめたことなど、すくなくとも幸村は一度もない。
「地理の教科書はあるの?」
「うん。じゃけど地図帳がのうなった」
「政経は」
「せいけい……」
 仁王は遠い目をして首を傾げている。
 彼が教科書その他を頻繁に人に借りるのはどうやら単なる忘れ物ではなく、自宅や学校のロッカー内で器用に行方不明にしているかららしい。先日それを知った幸村が、自分の分をしばらく貸しておこうかと提案したとき、甘やかすなと真田は眉をしかめ、仁王だけなんてずりーだろい俺にもちょうだいと丸井が的外れな異議を申し立て、贈呈ではなく貸与ですよと柳生が丁寧に突っ込みを入れていた。
 だけど俺には当分必要のないものだから、と笑顔で真田に告げたときの自分の心の曇りようは、思い出すだに醜すぎて胸の奥がぎゅうと縮む。真田にも皆にも悪いことをした。誰もが表情を硬くして当惑したような視線を幸村に向ける中、仁王だけが、ナイスアイデアじゃあゆきむらァ、と涼しい顔で笑った。
 無神経に過ぎるとあとで真田に嫌というほど説教を食らっただろうが(柳生もきっと加勢したに違いない)、仁王はその無神経さで幸村を気遣っている気がする、寸分の違和感もなく普段通りでいることが彼の優しさのように思う。
 だとしたら、優しくするべき対象として仁王に認識されているのだとしたら、
(俺はなんて不幸なんだ)
「仁王、もうきてくれなくていいよ」
 まったくの思いつきで幸村は言った。思ってもいないこと、ではなかった。長く喉につかえていた異物をやっと嘔吐したような唐突な安堵、同時に一瞬の焼けるような胸の痛み、目尻が熱くなる。
「俺は平気だから」
 サイドボードの花瓶を無意味に持ち上げたりまた置いたりをくり返していた仁王は、ベッドの脇に突っ立ったまま、彼にあるまじきわかりやすい驚いた顔をした。仁王の目がこんなに大きく見ひらいたのを、幸村ははじめて見た。
 一昨日幸村の母が持ってきたガーベラ、カモミール、ライラックエトセトラのかわいらしすぎる派手な花束を活けた花瓶が、仁王の手からするりと抜け落ちた。分厚いガラスの花瓶は重たい音を立てて床にぶつかり、水と花びらを舞い上げ、割れることなく壁際まで転がって止まった。
「あー……すまんの」
 仁王は自分の手と水を被ってしまった足、濡れた床を交互に眺めてから、雑巾、と呟いて病室を出ていった。うっすらと残された濡れた足跡を幸村は目で辿り、開け放された白いドアを見る。日々あそこから姿を現す仁王、気づけばその頻度はテニス部レギュラーの中でも群を抜いて高くなっている。それはとても不思議なことだ。幸村と仁王が特別親しいと認識している者はいない、誰も。
 雑巾を調達して戻った仁王はてきぱきと床を拭いて花を拾い集め、けれど壁際の花瓶は目に入らないように手付かずだった。雑巾を置きにいったのか花束を持ったまままた病室を出ていき、戻ったときには、その手にはいちばん大きなピンクのガーベラしか残っていなかった。
「もうこんでええっちゅうなら、二度と帰らんでずっとここにおるけえ」
 言葉遊びのように言い、愉快そうに笑ってガーベラを幸村に差し出す。幸村が受け取らずにいると、すぐに手を引っ込めてベッド脇のパイプ椅子に座り、布団越しに幸村の足の上に突っ伏して目を閉じた。
「仁王、」
「話しかけんなあ」
 床に向かって垂れた仁王の右手から、ガーベラが滑り落ちた。
「いま、絶望ば噛みしめとんじゃ」
 すう、と仁王は寝入ってしまった。はじめて見る寝顔はまったく優しくて無防備に過ぎた。 
 どうして俺はいま腹立たしいんだろう。うれしいんだろう。泣きたいんだろう。

 

 

 2008.1.14
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