※日記からの再録です。
釣り初め!スプリング カムズ全部嘘、全部嘘

 

 

釣り初め!
09.1.6

 

 人の趣味をとやかく言う気はないが、釣りはやめていただきたい。いや訂正、全国の釣り愛好家の皆さん失礼しました、月森にだけとやかく言いたい、趣味の釣りに人を付き合わせるのはやめていただきたい。
 花村は河原のブロックの上に突っ立って腕組みをし、きらきらと朝日を弾く鮫川を目を細めて眺める。冬の朝の冷え込みは身にこたえるが、空気が凍えて冴え返るせいか、見慣れた風景がいつもより美しく新鮮に見える。ような気がする。実際のところこんな真冬の早朝に河川敷にきたことなんてないので、新鮮に感じられるのは当然といえば当然なのだ。
「なあ月森」
 風景の新鮮さ美しさだけで寒さをごまかすのにはやはり限界がある。釣り竿を握って無言で隣に立つ月森に、あまり返事を期待せず花村が低く呼びかけると、意外にもすぐ答えが返ってきた。ものすごく非生産的な答えが。
「静かに、魚が逃げる」
 俺が逃げたいです、と花村は思う。
「俺いまここにいる意味なくない?」
「釣りのときは無心になれ、花村」
「俺釣りしてませんから!」
 花村が思わず大声を出した瞬間大きな波紋を描いて浮きが沈み、月森が前後にひらいた足を強く踏んばって爛々と両目を輝かせた。が、花村にもひと目でわかるほどすぐに釣糸は張りを失い、ろくにリールを巻く暇もなかった月森が爛々したままの目を厳かに花村に向ける。こわいから!
「お前のせいで、みたいな目をするな!」
「だから無心になれって言ったのに」
「いまちゃんと食いついてただろ、それ逃がしたのは俺じゃなくてお前のう、責任だろ!」
 腕のせい、と言おうとしていちおう思いとどまったのだが即バレた。月森の目から非難の光が失せ、代わりに傷ついたような色がありありと浮かぶ。まるでダンボール箱の中の捨てられた小犬のよう。しかし花村は知っている、その至極自然な悲しみの発露が演技であることを。
 ポーカーフェイスの二つ名に飽きたのか、月森はここ数ヵ月演劇部でせっせと感情表現を磨いては相手構わず無駄に披露しようとするので始末が悪い。だが捨てられた小犬の目も三大美女レベルの笑みもいますぐ死なすという凄みも全部演技だと見破れる(すくなくとも花村は)のだから、月森の演技力はさして褒められたものではないということか?
「花村、もしかして帰りたいの?」
 月森が小犬の目のまま小首を傾げて訊いてくる。潤み気味のつぶらな瞳ばかりか弱々しく垂れた耳まで幻視できる気分になるが、騙されてはいけない。月森が握って離さない釣り竿、その先から垂れる釣糸、さらに辿って川面にたゆたう浮きへと視線を移しながら、花村は若干遠い目になる。
「逆に問いたい、なんでもしかしてとか思うのか。そしてもうひとつ問いたい、今日はなんの日だ月森」
「元日です」
「はい正解!」
 元旦早々呼び出されて初詣かと思いきや釣りに熱中する相棒の姿を寒さに耐えつつ見守るだけというこの惨劇、帰りたいに決まってんだろ! そんな花村の心情を察しているのかいないのかいるけれどシカトなのか、月森はいつも通りの生真面目な無表情に戻って花村を見つめ、決意あふれる口調で告げた。
「今年最初にヌシ様を釣るのは俺でなくてはならない」
「どっから出てきた掟だよ! ねえよ!」
「今年最初に花村といるのも、俺でなくてはならない」
「っ、そ、そんな掟もないから!」
 裏返りかけた声で花村が叫ぶと、月森はまた捨てられた小犬の目になった。それが今度は演技ではなく見えたとか、心臓を鷲掴まれたとか、めちゃくちゃ嬉しかったとかは、断じてない!

 

 

 

スプリング カムズ
09.3.1

 

「この春は僕らにとって新しく、そして悲しい季節になるだろうね」
 生まれて此の方マイペースを崩したことなどございませんというオーラを背負っておきながら、実は結構あらゆる事象言動に流されやすい月森が、今度はなんの影響を受けたものか、唐突に口走った。
 この春って、まだ一月ですが。冬真っ盛りなんですが。ていうか「僕」てなんなの気持ち悪い。と、花村はひそかに鳥肌を立てながら、勝手知ったる堂島家の居間でテレビに向けていた視線を、台所の流しに立つ月森の背中へと移動させる。
 春、と月森が、花びらを噛み締めるような優しさとおそれを含んだ口調でまたくり返した。さっき二人でココアを飲んだマグカップと、朝食・昼食後の片付けをさぼっていたらしい溜まった食器類をまとめて洗う手は、変わらずてきぱきと動き続けている。
 さして張っている様子もないのに月森の声は水音にさらわれることなくよく通るなあと、花村はぼんやり感心した。さすが演劇部。
「僕が発つその日がきたら、君は引き止めてくれるだろうか」
 遥かに予想外の言葉に、こたつに入って蜜柑の皮など剥きながらぬくぬくと身も心も弛緩しきっていた花村は、驚いて思いきり背筋を伸ばす。
「お、おう! 引き止める! 全力で引き止める!」
 両手で蜜柑を握り締めて花村が何度も頷くと、月森は水道の蛇口をひねって水を止め、ごくうっすらと眉を寄せて振り向いた。
「違う」
「は?」
「『そうできたらどんなにいいかしら』だ、メアリ」
 はあ? ともう一度盛大に疑問の声を上げて、そして花村はすぐに気づいた。さすが演劇部!
「練習熱心ですねえこのやろう!」
「メアリ、そんな粗野な言葉は君には似合わ」
「だってあたしメアリじゃないものジョニー!」
「練習相手になってくれ、小沢の期待にこたえたいんだ」
「女のためかよ……」
 憮然とする花村の神経をさらに逆撫でするごとく照れたような笑みを浮かべ、月森はまた流しに向き直って水音を響かせ始めた。花村は溜め息をつき、握り締めたせいで若干生あたたかくなってしまった蜜柑を口に放り込む。
「なあ、月森」
 この春は、新しく、悲しい季節。
「俺が引き止めたら、お前ここに残ってくれんの?」
 水音がまた止まった。月森が身体ごと振り返り、菜々子のTシャツとお揃いだというかものはしエプロン(ジュネスのオリジナル商品だがまさか需要があるとは思わなかった)を着けた締まらない格好で、すこしだけ困ったように眉を下げた。
「そうできたら、どんなにいいかしら」
 おどけるというにはあまりにも穏やかな口調で月森が言って、けれど顔ではからかうようにニヤと笑ったので、花村もつられて笑いかけ、しかし耐えられずに目を逸らす。
 なぜ自分たちは、自らの意思と力では住む場所を選ぶことすらままならないこどもなのだろう。喉が潰れるまで泣きわめいてでもわがままを通そうとする勇気を失った、中途半端な大人なのだろう。
 花もあたたかな日差しもいらない。
 春なんて、こなければいい。

 

 

 


09.6.17

 

 踏み出す一歩がこんなにもおそろしいとは。
 道を歩けば靴底がアスファルトを擦ること、普段まるで意識にのぼらないそんなかすかな揺れにさえたががはずれてしまう気がして、月森は黙々とビフテキ串を噛みちぎりながら歩く。ただ唇を引き結ぶよりも食うことを選んだのは、そのほうが黙っていられるように思えたからだ。口の中に食べ物を入れたまましゃべってはいけません。行き届いた常識教育をありがとうお母さん、買い食い歩き食いはどうか大目に見てください。
 おそろしいほどに、苛々している。理由は考えない、(なぜなら考えるまでもない)、そして決して語らないと月森は決めた。何を言っても悲惨なことになる、花村には聞かせられない。
 花村は自分でビフテキコロッケを買っておきながら持て余すように手をつけないまま、月森の横を、人ひとり分ほどの間隔をあけて同じ歩幅で歩いている。笑顔もゆるさもないが不機嫌とは見えず、月森の様子を窺う素振りもなく、腹減ってないのに余計なもん買っちった、と百五十円を惜しんでいるのだと言われればもっとも納得がいく。ふうと短くため息をついてから月森を見た顔には、お前のビフテキ串につられたんだからな! という毒にも薬にもならない非難が浮かんでいるようにすら見えた。
「いる?」
 前ぶれなく花村が差し出したのは右手のコロッケではなく、一度ズボンのポケットに入れてからまた出した左手だった。月森はビフテキ串をくわえたまま手を伸ばし、『おいしいグミ』と自信に満ちあふれた商品名の書かれた開封済みのカラフルなパッケージを受け取る。たぶんクマからのおすそわけ。の、横流し。
 なぜ今日はのど飴じゃないのだろうと月森はすこし首を傾げ、目の合わない花村の横顔を見る。ふと、以前彼と交わしたたわいない会話がよみがえった。まだ出会って間もないころのことだったように思う。「グミって喉につまるような気がしないか」「や、しないけど」「俺はものすごくつまったことがある」「(失笑)」
 喉がつまれば言葉は出ない。
 グミの袋を制服のポケットに押し込んで、月森は目を伏せる。ビフテキ串の肉は全部月森の腹の中におさまって、ただの串になってしまった。
「ごめん、花村」
 やっとコロッケをかじり始めた花村は、唇に細かくついた衣を舐め取りながら月森を見た。
「いやな思いさせてごめんな」
 花村は返事をしなかった。惣菜大学のおばちゃんに土下座したくなるほど、おいしくなさそうにコロッケを食べ続けていた。自分もさっきビフテキ串を相手に同じ顔をしていたのだろうと月森は思う。おばちゃんが塩と砂糖をまちがえたのではなく自分たちの心持ちが食べ物の味を貶めているのだから、本当に失礼な話だ。
 黙っていても本音をぶちまけても花村を傷つけるのだから、本当に、ひどい話だ。

 

 

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