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※日記からの再録です。
当たり前の顔をして彼らはカレンダーにないおそろしいほど一方的な恋だ

 

 

当たり前の顔をして彼らは
07.7.24

 

 ふたりして永遠みたいにそっぽを向いて、一点の日陰もない灼熱のテニスコートに並んで立っている。
 空はどぎついほどにおそろしい青。連携して絶えず鳴き狂うおそろしき蝉のチームワーク。何よりおそろしいのは、テニスでは人並みに汗をかくが殺人的な真夏の日差しにはどう見ても涼しい顔のそこのふたり。
 暑くねえのと赤也は尋ねた。どちらに、ということはなかった。なぜなら赤也はコートの上の三人目だが、ほかのふたりのことをそう多くは知らない。部活動のコートでしか会わない先輩たちのことを多く知る後輩なんて、実際滅多にはいない。
 赤也の問いはひとりに無視され、もうひとりに一瞥ののち簡単に薄笑いで返された。
「口ん利き方がようないのお、切原あ」
 涼しげといえばまあ涼しげ、胡散臭いといえばそれに勝る形容詞なし、不自然さならマックスの灰銀の髪をした彼の物言いに、赤也は違和感を覚える。そんな真っ当な指摘は彼ではなく、その隣で彼に背を向けてじっとコートに目を落としている上品な眼鏡の人の口から語られてこそだと思った。
 額から流れた汗が右目に流れ込み、赤也はこどものように両目をつむる。あける。右目がすこし痛んだ。視界の中のふたりの違和感が増した。
「いま入れ替わってる?」
 つい訊くと、仁王は揶揄するように、タメ口ぃ、と不安定に語尾を伸ばしてにやついた。
「入れ替わってますか?」
「なんでじゃあ」
「なんつーかちょっと、すげー気持ち悪い感じが、」
 不自然、を言い間違えて本音が出た。脊髄反射で赤也は青ざめたが、幸い仁王は気に留めなかったようだ。
「いまは必要ないき」
 単調な返事は否定と取れたが、十分に肯定でもあり得る気がした。必要ないことを無駄に完璧に常時やりたがるのが彼だ。
 のう紳士、と同意を求めた仁王の手は、柳生が急に一歩進んだのでその肩をつかめずに空を切った。熱で凝った空気が一瞬かき回されたが、気休めにもならない。
 柳生はさらに一歩進むとしゃがみ込み、何か拾い、すぐに立ち上がった。何を拾ったのか赤也には見えなかった。あのふたりの足元がゆらりゆらと歪んで見えるのはなんだろう。
 柳生は拾った何かを仁王に渡し、仁王はそれをひょいと片目に入れる仕草をすると、助かったぜよ、と笑った。
「え、仁王先輩って目ェ悪かったっけ? んですか?」
「小五んときから眼鏡っ子、色気づいてからはコンタクトじゃ」
 具体的な数字も、彼の口から出れば途端に曖昧になる。赤也が何も判断できずにいるうちに、仁王は何事もなかったように部室のほうへ歩き出し、柳生もまたそれに続く。
 赤也は急にドキリとした。彼らも自分もこのあとの行動はまったく同様であるはずなのに、部室に引き上げて着替えて学校を出る、なのになんだよ、別行動?
 夏休み、今日は部活が午前中だけで午後は遊び放題、みんな飛ぶように帰っていく中で仁王と柳生だけがいつまでもコートに残っていて、赤也は特に深い意味もなく当たり前の疑問に駆られて(何やってんだあの人たち?)それを遠くから眺めていただけだった。なのにいつの間にか声の届く位置にいて、その距離の変化はあまりにも、
(普通)
 赤也は唐突に気づいた。
 柳生が本当はコンタクトなんか拾っていなくても、仁王の視力が両目ともに2.0でも、いまふたりが入れ替わっていたとしても、彼らにとってそれは普通だ。まるで目に入らないように赤也を置いていくことも。
 遠ざかっていくふたりの背が揺らいでいる。頭上に注ぐ熱も、コートから照り返すひかりも容赦ない。両手で雑に顔を拭うと、手首から肘へと汗が伝った。かげろう、という言葉を思い出す。
 暑いのも蝉がうるさいのも陽炎が立つのも、普通のことだと知っている。正体の知れないふたりの先輩のことは、あまり知らない。
 仁王と柳生は、もう練習場の外に出ていってしまった。けれどまだフェンス越しに姿は見える。
 汗ばんだてのひらを、赤也はぎゅうと握りしめた。
 いまならまだ、普通に、追いつける。

 

  

 

カレンダー
07.12.9

 

 仁王くんの? とたいして興味もなさそうに問い返すような柳生の声がして、赤也は部室に入ろうとドアノブをつかみかけていた手を思わず止めた。室内でする声を漏らさず聞き取ろうと耳を押し当てた途端ドアは勢いよくひらき、ガンと思いきり額の左側をぶつけると同時にベシと頬が潰れた。考えてみれば当たり前だ、ここは部室なんだから中にいる部員(柳生ほか三年生はすでに引退しているので厳密には元部員だけれど)は外に出てくるものだ。というか赤也こそ歴とした現部員なのだから堂々と入室すればよかっただけの話、聞き耳を立てる必要がどこに。
 痛みよりもむしろ自分のアホさ加減に衝撃を受けて額を押さえてしゃがみ込んでいると、何やってんだおまえ、と丸井の声が降ってきた。ドアをあけたのは丸井のようだ。馴染みの黄色ではなく自前の鮮やかすぎる赤いジャージにだらしなく片方だけ袖を通して、いつも通りもぐもぐ口を動かしている。
 ドアなんて普通にあけたって思いっきりあけたって結局あくんだからもっと静かにやさしーくあけらんねえのかよ、と逆恨み以外のなんでもなく赤也は黙って丸井を見あげた。鉄壁の無表情を装ったつもりだったのに沈黙の中に不平を読み取られたらしく、丸井の口元でみるみる膨らんでいた薄いグリーンの風船が不吉な音を立てて破裂した。
 ひっ、としゃがんだまま顔を庇うように赤也が身構えると(なんて不本意な条件反射!)、丸井は鼻で笑ってまたクチャクチャと口を動かした。ああなんてむかつくそしておそろしい笑顔。甘いりんごの匂いさえおそろしい、となかば本気で怯えはするものの、
「今日も練習出てくんスか。ヒマなの?」
 結局考えなしにそういう口をきいてしまう赤也なので、日常的に丸井の標的になっていても同情してくれる者はすくない、救いの手となるともっと絶望的にすくない。
「ヒ・マ・なんだよ。遊んでやっからありがたく思え」
 引退したといっても内部進学者は受験勉強とは縁がない、ヒマに任せて部活に顔を出す三年生はどこの部にもあふれている。丸井は赤也の物言いを咎めないかわりに、右手のラケットを大きくぐるりと回した。髪の先を鋭くフレームがかすめていき、赤也はまたひっと首をすくめる。
 その様子を見兼ねてか、ふいに柳生が赤也の目の前に片手を差し出した。見あげると、眼鏡のレンズの奥でかすかに目を細め、唇の端を優雅に持ちあげている。とうに見慣れたと思っていたのにこっちが赤面するような通り名に恥じない紳士っぷり、なんだか背中がむずむずすると同時に赤也は確かにきゅんとして、柳生の手につかまった。指きれいですね好きです柳生先輩、と日課みたいに(実際ほぼ日課となり果てている愛の告白は当たり前に軽口と大差なくなって柳生にはまるで信用がない)口走りそうになったけれど、丸井がすぐそこにいるのでいちおう我慢する。
 丸井は、王子様が迎えにきたお姫様みたいにうっとりと立ちあがった赤也をおもしろくもなさそうに一瞥してから、柳生に向き直った。
「今日なんだろ、仁王の誕生日?」
「さあ」
 赤也がついアホな聞き耳を立てずにいられなかった会話の続きをようやく丸井が口にし、しかし柳生はあっさり打ち切ろうとする。
「知らねえの?」
「なぜ知っていると思うんですか」
 柳生はめずらしく、うっすらと迷惑げな顔をした。きれいな眉間に寄るしわはそれ自体もうつくしく整っているんだなあと、赤也はとても納得した気分になる。
「自分の誕生日知らねえわけねえだろい、仁王?」
 柳生の肩を軽く叩くと、問題のある発言と甘い匂いを残して丸井はコートのほうへ歩いていってしまった。え? と赤也はまばたいた。思わず凝視した丸井の背中からは、いつもと同じ風船ガムの割れる音がする。
 え?
「またそういうつまらないことを言う……」
 ため息のように柳生の声がした。隣に立つ彼に視線を移すのを赤也は一瞬ためらった。おそるおそる見たその人は、柳生以外の誰にも見えなかった。しかし、仁王雅治の化けた柳生比呂士もまた、柳生比呂士にしか見えないのではなかったか。
「た、たんじょうび」
「はい?」
「おめでとうござい、ます?」
「私の誕生日は今日ではありませんよ」
 柳生はあきれたような、すこし困ったような顔をした。どさくさに握ったままでいた柳生(本当に?)の手を、赤也は慌ててはなした。
「俺、き、着替えてきます」
 回れ右をして飛び込んだ部室で見たものは、今日の日付だけが黒マジックで四角く塗り潰されたカレンダー。自分の生まれた日などどうでもいいと笑うならそれは仁王、几帳面で正確無比な正方形を描けるならそれは柳生。いま俺にやさしかったあれは誰だ、長くてあたたかいあの指、頭がくらくらする。

 

 

 


08.7.19

 

 なにがいけなかったんですか、と切原が頭を抱えてしゃがみ込んだ。彼を追って自分も優しく膝を折り、こどもをあやすようにその場凌ぎのやわらかく心ない魔法の言葉を吐く、紳士たるものその程度の悪行は容易だった。しかしまるでその気が起こらず、このように性根の冷たい男をなぜいつしか誰もが紳士などと呼ぶようになったのかといまさらの疑問に意識を逸脱させながら、柳生は美しく背筋を伸ばしたままでいた。
 グラウンド外周のランニングコースの途中で足を止める二人を、男子テニス部員たちが次々に追い抜いていく。休んでんじゃねえぞワカメえええ、と怒鳴り声の尾を引いて丸井が爆走していったあと、柳が若干何か含んだ目で柳生を見ながら通り過ぎた。切原に害を為すなという言外の非難が含まれた針のようなその視線は心外だったが、疑うのなら切原を柳生から保護すればいいのにそうしないあの男は存外横着だ。
 元来練習熱心な切原がいまランニング中に足を止めてしまった原因も、何がいけなかったのかという彼の問いへの正答も、パズルの最後の一ピースのようにこの世にひとつしか存在しない。確固たる悪因、と柳生は薄く眉をひそめる。
 切原の困惑や衝動、その飛び火で柳生が余計な気を煩うこと、すべて仁王雅治のせいだ。彼が、仁王雅治と柳生比呂士という個の境界を限りなく曖昧にしてしまった。
 生まれついての別人、それもそれぞれ自我のある生きた人間同士の存在が混じり合い判別つかなくなるなど柳生にとっては絵空事だ。しかし何人もの他人が一時はその架空に取り込まれ、特に切原はいまだ強く影響を引きずり翻弄されている。柳生と仁王の入れ替わりは表面的物理的な偽りであり、戦略とも呼べない単なる悪趣味だと彼だってよく理解していたはずなのに。もとより種を明かしていてなお成立するペテンなど聞いたことがない。
 ペテンではなく呪いなのだと思えばよほど納得がいった、仁王雅治は人の身でありながら魔法を使うのかもしれない。こどもじみて低俗な魔法を。
 傍らの樹木からギイイイイと割れるような蝉の声が降り、柳生は我に返る。眼前の日向にはまだ切原がしゃがみ込んでいて、伏せた頭を抱え込む腕と項に汗が滲んでいる。
 呪いをかけたのならもういい加減解いてやるべきだと柳生は思った。胸倉つかみ上げてでも解除の方法を吐かせたいと滅多に表沙汰にしない本能的な衝動が込み上げ、次々と脇を走り過ぎていくチームメイトたちを目で追ったが、目立つと同時に存在感を殺すことにも長けた魔法使いの姿はない。
 なにがいけないんですか、とまた切原が言った。土に蒔いた瞬間芽吹いて一夜で壁を覆い尽くす蔓薔薇のごとき言葉だと思った。ああ、これもまた呪詛だ。
「なんでだめなんすか」
 切原のひかる目が柳生を見上げた。じわりと息苦しさに柳生は捕われる。真に呪いをかけられたのは自分であるのかもしれない。
「俺はアンタも仁王先輩も好きなんだ欲しいんだ両方本気なんですしょうがないじゃないか!!」
 

 

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