氷帝短文ログ
※日記からの再録です。タイトルにオンマウスで登場人物表示。
落下スカイ|このどうぶつはしあわせか|さみしい鳥
落下スカイ
日吉と慈郎/06.11.30
落ちる夢を見たのだそうだ。
高いところからではなかったようだ、なぜだか突然バランスを崩し、踵から落ちて、身体が傾いでああ自分は落ちているのだなと知って一秒とせず、首のうしろに水が触れたという。すぐに全身が水中にあった。プールのそばとか立ってたっけおれ超だっせえ、と若干腹が立った、らしい。落ちるなら、どうせ落ちるならいっそ目眩のするほど高い高いところから真っ青な空に向かって落ちてゆきたかった、どこまでもどこまでも、そんで最後に跡部がだっこでうけとめてくれたら最高!
「でもおちる夢ってぜったい地面つく前に目ェ覚めるし」
コートの隅で膝を抱えてまるくなった慈郎は呟くようにそう締めくくった、のだろう、おそらく。昨夜見たという慈郎の夢が水に落ちたところで覚めたのか、話すのが面倒になっていまそこで終わらせたのか、それともこれからふたたび彼の口がひらく可能性があるのか、日吉にはまるで予想がつかない。だから、これで終わりならいいと強く願った。このまま二度と何も語らず、さっさといつものように眠ってしまえ。
ジローがたまにまともなことするとろくなことがねえと宍戸や向日がよく言っているが、まったくその通りだ。広い氷帝コート内では多くの部員たちが練習前のアップに励んでいて、奇跡的に時間を守ってその中に混ざっていたが恒常的に即飽きた慈郎がヒマ潰しの相手として日吉を選んだのは偶然、日吉にとってはここ七日間で最強の不幸。
「跡部さんがくるまであと十四分あります」
正確を期して日吉が言うと、しゃちょーしゅっきんね、と慈郎は普段の自分を棚上げした。
「寝ていたらどうですか」
「ねむくない」
目を見張りたくなるほど衝撃的な慈郎の返事に、日吉は心底自分が哀れになった。眠くない芥川慈郎なんて厄介なものの相手をなぜ俺が、
「でね、水んなかにキリン色の」
「夢の話はもう結構です」
眠ろうとしないこの人を放っておけないなんて不可解な感情はいったいどこから、
「でもほかに何かあったなら、早く言ってください」
膝に押しつけて伏せていた顔を、無表情に慈郎が上げた。瞳がわずかに驚いていた、ような気がした。
「練習が始まるまでなら聞いてあげます」
オメエ生意気! と慈郎は笑った。笑いながらコートに横倒しになり、あっという間に寝息を立て始めた。こんなに無礼で安堵をもたらす拒否を、日吉はいままで経験したことがない。
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このどうぶつはしあわせか
日吉と慈郎/07.8.11
「芥川さんの頭がおかしいです」
「いつもだろ」
「いつもよりです」
「持って帰れ」
無味乾燥なわずかばかりの会話を実に無駄に交わしたのち、生徒会室のドアは日吉の鼻先でにべもなく閉じられた。そうして邪険に追い払うときでも、雑な動作は決してしないのが跡部だ。公の場での彼の所作はあくまでも高雅。その例に漏れず音もないほど静かに閉まりゆくドアの向こうで跡部が確かに含み笑いをした。
なぜ笑う、とほんの一秒、いやそれ以下の捉えがたい刹那疑問に思ったか思わぬうちに、日吉の背中で低く動物的な声が笑った、もってかえれだって、うふふふふ。
振り返り、楽しんでいるのだか眠いのだか、あるいは腹の底から怒りに燃えているのだか、曇って不吉な目をした慈郎を見、遅まきながら日吉は悟った。
ああくそ、押しつけられたのだ。このとてつもなく厄介ないきものを。
そもそも慈郎の頭がいつもよりおかしいと思ったのは数分前、
「跡部がおれにゆったわけですよひよしくん、おれにいま必要なのはテニスの練習じゃなくてお勉強なのではないか、いな、きっとそうであるぜ、あーん? と。クラスのほとんどみんなが宍戸くんさえもが十点満点のクソぬるい古典のテストでおれが一点とかかましたからなわけですよ。そこでおれはオメエに相談しよーと思ったの、古典と古武術ってゆう共通点に目をつけたの。春はあけぼのって春場所のおすもうさんのこと? すもうって古武術?」
部室にいこうと靴を履き替えていた昇降口でとっ捕まって、わりとそれなりに本気のように見える目でそう宣われたとき、人はどう反応すればいいのか。助けてください、と誰にともなく懇願したくなった自分を恥ずべきとは日吉は思わない。そして助けを求めていきついた相手が本日現時点ではテニス部部長ではなく生徒会長である跡部だったわけではなく、慈郎を拾ったら跡部のところへ持っていけというのは男テニ部員の常識だ。
返品された慈郎を即捨てたい日吉だったが、シャツの背をつかんだままトコトコついてくるので、とりあえず部室までは持っていかなければならないようだ。異様に着替えのとろい慈郎を置き去りにコートの彼方へ行方をくらます自信なら十分にあるが、もし万が一振り切れなかったらと思うとぞっとする。
普段誰といても何をしていても唐突に落ちる慈郎なのに、なぜいまに限って黙々と目をひらいているのだろう。こういうときのこの人は大概機嫌が悪い、というよりこども然とふて腐れているのだと、なぜ自分は知っているのか。
「部活禁止とかゆわれたらどうしよう」
おれ跡部なぐっちゃうかも、と呟く慈郎はいっそため息も出ないほど自分勝手で論点がずれている。修正するだけ無駄とわかりきっていたが、ほかに言うこともないので日吉は言った。
「勉強もちゃんとすればいいでしょう」
「いや」
マッハの即答に腹を立てる気にもならない。慈郎はおそらく勉強ができないのではなくしないのだ。学生の本分たる学業に費やすべき時間をすべて睡眠に充てている。好きなことしかしない、できない、見ない人間など、日吉にとっては口をきく価値もない。
「あなたは幸せな人ですね」
嫌味のつもりだったのに、慈郎は当たり前に本気で不審げな顔をした。日吉は驚き、ひどく鼻で笑いたい気分になり、そしてなぜだかすこしだけ、悲しいような気がした。
「俺だったらあなたなんてとっくに捨ててます」
跡部だって、本来はそういう考え方をする人間のはずだ。その彼がいつまでも、永遠みたいに慈郎を見捨てずにいる理由、不自然すぎるゆえに本能でしかありえないそれにまさか本当に気づかないでいるのなら、この人はとても不幸だと思った。
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さみしい鳥
岳人と慈郎/08.3.21
部室棟の一階の自販機の前で、フルーツ・オレかバナナ・オレかで迷っていたら、誰かが肩にぶつかってきた。見ると、黄色い癖毛が隣に立っている。
「それちょうだい」
当たり前みたいに伸びてきた手に請われて、意味わかんねー義理も義務もねえ、と思ったけれど、岳人は右手に持っていた百円玉を慈郎のてのひらに落としてやった。平たく小さな金属のかけらをぎゅ、と一度慈郎は握りしめ、けれどすぐに「これじゃない」と突き返してくる。ふたたび岳人のてのひらに戻った百円玉は、真夏のアスファルトの上で焼かれたように熱かった。
「それ」
と慈郎が岳人の左手を指さす。岳人は左手にラケットを持っている。アホか、と心底思った。
「やだよ」
「どおして」
「俺がラケットくれっつったらおまえはくれんの、ジロー?」
「……あげないね」
「だろ」
「うん」
ああこいつ起きてねえ、と岳人は思った。まるく目をひらいて、膝下を切り落とした兄貴のお古のジャージから伸びた足でしっかり地面に立っているのにまだ起きていない。非常識という名の扉だけを鍵もないのに簡単にひらいて、常識を切り落とした世界にコートを踏むのと同じ足で立つ、そんな慈郎の不器用で寂しい生き方を、岳人はときに器用で愉快だと思った。うらやましいような気がしていた。
「跡部んとこいけよ」
起きていない慈郎の相手はひどく面倒なので、跡部に押しつけることにする。慈郎は素直にこくと頷いて、振り返らずにまっすぐコートのほうへ歩いていった。
岳人は自販機に向き直り、慈郎の体温の残る百円玉を硬貨投入口に落とす。どっちのボタンを押すかはまだ決めきれない。
なんの疑問もなく跡部のところへいく慈郎をうらやましいと思った。自分はどこへ、誰のところへいこう、と思った。
思いつかない。
「 、」
突然うしろから呼ばれて振り返る。とても見慣れた顔がそこには立っていて、取り立てて表情もなく、戻りが遅いので迎えにきたというようなことを言った。胸の奥がかすかに爛れるような気が、岳人はした。
おまえじゃねえよ、と睨むようにそいつを見据えながら、拳でガンと自販機のボタンを見ないまま押す。ガタン、と、落ちる音がした。
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