※日記からの再録です。
跡部さんの悪夢お子様と王様あなたは さくら●●●●

 

 

跡部さんの悪夢
06.11.27

 

 ポイントカードの元祖をうたう某有名電化製品量販店の家電フロアに、慈郎とふたりでいる。跡部と揃いの、なのに到底同じには見えないだらしなく着崩した制服姿の慈郎が、威圧的に並べ立てられた大容量の冷蔵庫群のあいだをトコトコ進むのを、跡部も惰性のように追って歩いた。
 多くのカップルや親子連れがパンフレットまたは店員片手に真剣に品定めをしている中、まるで商品を選ぶ気配なく通路を直進する大型冷蔵庫なんて買い物をする財力も必要もないはずの制服姿の中学生、である自分たちの異質さは当然だんだんと居心地の悪さにつながってゆく。れいぞーこ、と確かに慈郎は言ったのに、どれひとつ興味を示すことなくただフロアを突き進む。
「ジローてめえちゃんと見てんのかよ」
 呼ぶと慈郎は足を止めて振り返り、うん、と頷いた。
「おれがはいれるくらいおっきいのがいい」
 またアホなことをと跡部がため息をつく間に、慈郎はてててと洗濯機のコーナーへ移動を始めた。
「おい!」
「せんたっき。おれがはいれるくらいおっきいのがいい」
「あのな」
「かんそうき。おれがはいれるくらいおっきいのがいい」「おーぶんれんじ。おれがはいれるくらいおっきいの」「ゆわかしぽっと。おれがはいれるくらい」「そーじき。おれが」
 ああついに慈郎が壊れた、と跡部は思った。修理はきくのだろうかと気が滅入った。というかそもそもジローおまえ根本的にありとあらゆる使用方法を
「誤解し」
 と、いっそ引くほど明瞭に言いかけた自分の声で、跡部は目を覚ました。ベッドの隣では慈郎がめずらしく起きていて、鼻先まで布団をかぶったまま気味悪げに跡部を見つめている。
「跡部、れいぞーこほしいの?」
「……いらねえよ」
「おっきいれいぞーこ?」
「黙れ」
 時計を見れば午前四時だ。ありえない時間に起きているありえない慈郎と、ありえない夢を見てありえない寝言をかましたらしい自分。すべてぶち壊したいと跡部は願った、修理などきかなくていい!
「ねー跡部、せんたっき?」
「一生入ってろ!」

 

 

 

お子様と王様
08.2.26

 

 黒地にオレンジ色のペンギン模様のビーチサンダルを履いた足がどこへ向かうのか慈郎にはわからなかった、自分の足なのに。深夜の住宅街をひとり歩いているのでペタペタペタと軽々しい足音が目立、たない。足音よりずっとけたたましくきらびやかに携帯の着信音が響き渡った。強く発光するディスプレイに兄の名前。
「なあに」
『コントローラーねえぞプレステの』
「あ。がっくんちに忘れてきた」
『死ね』
 冷静に命じて通話は切れた。日付が変わっても家に帰らない義務教育中の弟に電話してきて吐く台詞がそれだけだなんてオニアクマ。てゆうか電話すらくれないおかあさんがもっとオニアクマ。て、ゆうか、夜ごはんのカレーひとつで(だっておかあさんは本気で忘れたんですチキンカレーなのに鶏肉を)マジギレたおれがアホ。ええ鉄板でアホですともごめんなさいね!
「でもおれはチキンカレーが食べたかったのたまねぎにんじんじゃがいもにんにくカレーじゃなくてとり肉」
 もぐもぐと口の中で呟くうち、慈郎はだんだん悲しくなってきた。真冬に素足でビーチサンダルなんておれはほんとうにアホだ、超さみい。ので、皓々と路上まで照らす白い明かりが人を誘うコンビニに、ペタペタと足音を響かせながら入った。
 あまりにもくだらない言い合いを母親として家を飛び出してから約四時間、通学路を無意味に何往復もして、途中三軒あるコンビニにいちいち入っては漫画雑誌を座り読みして出てをくり返し、三軒ともの店員に顔を覚えられたのはもちろんそろそろ本気で不審人物としてマークされているに違いない。
 だって続きは読みたいけどお金出して買うほどほしくはないんだもん。つーかサイフ家だし。無一文なんだもん。と、ふて腐れながら悪びれず漫画週刊誌をめくっていると、現在の唯一の所持品がまたピカピカひかってキラキラと鳴った。
『いまどこにいる』
 跡部からメール。なんかこのひと三十分おきに居場所きいてくるけど助けにきてくんないしうざい。ろーそん、と返信して慈郎は携帯の電源を切った。
 おかあさんの年増! とわめいて家を出たあと慈郎は跡部に即電話をして、チキンなしカレーの顛末を訴えた。そうしたら、アホ抜かしてねえでさっさと帰れおばさんに謝れメシつくってもらってることをまず感謝しろてめえ年増って意味わかって言ってんのかとこの上ない正論を吐いて電話を切りやがったくせに、その後定期的に、いまどこだとかもう帰ったかとかメールをしてくる。みんないつも跡部の忙しさを労わったり憂えたりしているけれど、実はけっこうひまなんじゃねーのあいつ、と慈郎は思った。
 普段なら跡部のことを考えると眠くなるのに今日はまったくその気配もない。通学路の往復もいい加減疲れてきたし飽きたし読みたい漫画もそろそろ尽きるしこれからどうすればいいの、とぼんやり不安を抱えながら惰性のように質の悪い紙のページをめくり、尽きると言いつつ二冊、三冊目にしゃがんだまま手を伸ばしたところで、突如横から雑誌を取り上げられた。
 見上げると、跡部。
「帰るぞ」
 雑誌をマガジンラックに戻すと、跡部はすぐに背を返して店の出入り口へ向かった。のそのそとついていきながら、慈郎は携帯の電源を入れる。午前一時ちょっと前。
「跡部はなにカレーが好き?」
「ビーフ」
 おそろしいほど簡潔で無感情な答えが返ってくる。怒っているのかあきれているのかそれ以外(主に殴るとか蹴るとかぶっ殺すとか)なのかまったく読めない。と思ったけれどコンビニを出た途端一秒で読めた。
 振り返った跡部の目はものすごく眠たそうだった、人は眠気に逆らおうとすると凶悪な顔になるようだ。兄ちゃんに似てる、と普段の自分を棚上げにして(いる自覚すらまったくなく)慈郎は思った。そして眠いのにこんな時間なのに補導だってされかねないのにあした(もう今日)も朝練あるのに迎えにきてくれたのだと気づけばなんていとおしい。ごめんねうざいなんてゆって!
「跡部あいしてる!」
 抱きつこうと両腕を広げた慈郎を見て、跡部は薄く笑った。あっ超怒ってる!
 直後、跡部が慈郎に向かって伸ばした腕はもちろん抱きとめるためではなくアイアンクローなわけだし、慈郎の勢いも愛の抱擁というよりむしろ壮絶なタックルのよう。

 

 

 

あなたは さ
08.4.4

 

「あとべは さくらみたいね」
 うらにわの桜の木の下に寝転んで じろうが云った
 黄色い髪の毛と まるい鼻のあたまと ネクタイのゆるんだ制服の胸と 腹と そでとズボンとほかにもたくさん 桜の花びらがとまっている
 じろうの言葉にはたいてい深い意味はないとあとべは思っている
 だから
「そうか」
 とみじかくこたえて けいたいでんわで時間を気にした
「きれいっていみだよ」
 横でじろうが云った
 わらっていなかったし あとべを見てもいなかった
「ありがとよ」
 あとべは立ち上がった
 昼休みが終わる前に榊のところへいかなければならない そのあと 生徒会室にも顔を出さなくてはならない
 仰向けのじろうの世界は はらはらと絶えず舞い落ちる桜の花びらで しあわせな色に染まっているんだろう それはそれはうららかでやわらかな ねむたくなるような やさしい世界なんだろう
 おなじ視線の高さでおなじ世界を見る余裕が あとべにはない
「いましかみられないよ さくら」
 歩き出したあとべの背中に じろうの声が云った
「いそいでさいて いそいでちっちゃうんだよ」
 あとべは振り返ったが じろうは相変わらず仰向けのままだった
「あとべは さくらみたいね」
 ふたたび歩き出した背中に ふたたび声がした
 今度はもう 振り返れなかった
 桜の木から遠く離れ 校舎に入ろうとしたとき あしもとにひとひら舞い落ちた
 さくら

 

 

 


09.5.5

 

 どうしてこころから素直にただひとこと、言えないの。
(ごめんね)
 自分の辞書にはまるでその言葉が存在しないみたいだと慈郎は思った。ページを破って丸めて捨てた。あるいはごく普通の消しゴムで奇跡的に消した。あるいは、生まれるときにおかあさんのお腹に置いてきた。
(ごめんね)
 跡部は眠っている。部室の部長ソファの上で靴を脱いだ両足を抱えて片膝に右頬を押しつけて、すこしだけ眉をひそめて疲れたように目を閉じている。
 こうやって身体を丸めて幼い眠り方をする跡部を、慈郎はもう何度も見たことがあるけれど、ほかの仲間たちは誰も知らないようだ。以前向日に言ったら想像できねーと笑われた。忍足に言ったら興味なさそうに生返事をされた。滝に言ったら困ったような微笑を返されて、宍戸に言ったら、なんだか複雑そうな顔で、おまえそれあんま人に言うな、と言われた。だから、ほかには誰にも言っていない。
 跡部の眉間の浅いしわを眺めながら、今日はなにをあやまろうと思っていたんだっけと慈郎は考える。ほかならぬ跡部その人が言っていたけれど、慈郎は恒常的にろくなことをしないので、特に跡部に対して本当にろくでもないことしかしないので、謝る材料なら毎日それこそ一分一秒ごとに降り積もる塵芥のように、生ある限り途絶えることのない呼吸のように。
 ちゃんと謝ってみたことだって、もちろんある。だけど、跡部と慈郎の「ちゃんと」の物差しは、絶望的に長さも正確さもちがったみたいだった。
 そんなもんはいらねえんだよ、と跡部は慈郎の「ごめんね」を撥ねつけた。かすかに目を眇めただけで、まるで怒った様子もなしに、ただため息をつくのと同じまつげの伏せ方をして。
『思ってもいねえことを口に出すな。言う意味も、聞く価値もねえ』
 いま跡部がしゃべったのは果たして日本語だったろうかと首を傾げるくらい、最初慈郎には意味がわからなかった。
(?)
(ちゃんと思ってるから言ったんだよ?)
(なにオメエその傷ついたみたいな、)
(あれ?)
 ああなんだ跡部はおれを信じてないんだ。
 と、思った瞬間、慈郎の頭と理性は沸騰した。部活中のテニスコートの真ん中で跡部に殴りかかって、もちろん周囲の部員たちにすぐに力尽くで引き剥がされたけれど、それでも若干の血を見た。
 そんなことがあってから、慈郎は跡部にごめんねを言えなくなった。ちがう、二度と言ってやんねーよと腹の底がずっと沸騰中だったので、言わなくなった。ちがうちがう、言えなかった。跡部に信じてもらえないのがこわくて、言えなくなった。
 こころから言えば信じてくれるし笑ってだってくれるとわかっていたけれど、一度拒絶された事実はいとも簡単に慈郎の言葉と勇気を竦ませた。こう見えて慈郎だって人並みに打たれ弱いし、傷つくし、何よりあのときの「ごめんね」は、慈郎なりの精一杯の本気だったのだ。
 許してくれなくていいから信じてほしい、なんて、切実で安っぽくて甘ったれた真摯なことを慈郎が願っているなんて、きっと跡部は考えもしないんだろう。
 慈郎が足音を忍ばせてソファの傍らに立つと、跡部はかすかにまぶたを震わせた。しゃがみ込んで跡部の足首をつかみ、跡部、と小声で呼ぶと、跡部は途端に目をひらいて慈郎に焦点を合わせた。六限目が自習になったので部活までのあいだ仮眠を取ると言っていたらしいが(そうと知ってすぐ慈郎は跡部を追って部室にきた、もちろん自分のクラスは自習ではない)、こんなに簡単に覚めてしまうような不自由な眠り方、眠っているうちに入らないと慈郎は思った。
「あとべ、」
「何さぼってやがる、さっさと戻れ」
(ごめんね)
「だいすき」
 跡部は一瞬眉を吊り上げ、短くため息をつき、それから力の抜けたような顔で笑うと、身を乗り出して慈郎の左の眉のあたりに唇を押しつけた。そんな半端なキスで満足できるわけがなかったけれど、慈郎はすごく泣きたくなった。
 よかった、信じてくれた。
 おれのいちばん本当のことを、信じてくれた。

 

 

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