※日記からの再録です。
ハッピーデイきみはすごいね

 

 

ハッピーデイ
06.11.25

 

 大丈夫かよと尋ねて手を握ってやったら、この態度だ。
「ひっ!? どうしたの跡部くん!?」
 跡部景吾がやさしく構ってやることに対して、千石清純は絶望的に疑り深い。
「ななななんでそんなやさ、やさしいのですかね?」
 どもるなよ。敬語かよ。失礼なんだよ疑問系がよ。
 扱いづらさに定評こそあれ利点など何ひとつないと思える白い学ランの袖口を茶色く汚した千石は、向かい合って立つ跡部の顔と、つかまれた手を交互に見比べながら、警戒心丸出しであからさまに身構えている。一秒後に即殴られると世界の理みたいに確信していやがる。
 殴りてえな、と実際跡部は思った。やさしくする気など光の百倍も速く失せた、サプライズを贈るよりその期待にこたえて心ゆくまでボコってやろうと簡単に思った。「俺にやさしくして跡部くん!」というわけのわからない気色の悪い不愉快な日常的な要求に、今日ばかりは従ってやろうとずっと前から決めていたのに、普段何があっても揺らぐことのない跡部の鉄の意志を、この極寒バカはこんなにも容易に突き崩す。
 跡部は眉をひそめて、握った千石の手に力を込めた。跡部の右手の中で小刻みに、感情ではなく惰性でただ振れ続ける千石の左手は拳を固めたまま解けない。無数のファイトバイトから滲む血が茶色く乾いてこびりついたその拳は、抜き身のナイフでいっぱいのイカレた宝箱に手を突っ込んだ愚か者のようで笑えない。拳の茶色も、学ランの袖口についた茶色も、数時間前にはあざやかすぎる赤として発生したはずだ。自分のうまれた日に他人をころすほど殴りつけた男。笑えない。
「無駄に傷つくってんじゃねえよ」
「でも右手は守ったよ」
「絡まれたら逃げろって言ってんじゃねえか」
「だってあっくんがマッハで向かってっちゃうんだもん。あっくん置いて逃げたらあとであっくんにころされちゃう!」
 そう理由づけをして喜々として他校生と渡り合ったのだろう千石の、切れて腫れ始めている唇の端に、跡部は短く乱暴に口づけた。まずい鉄の味がした。
「祝ってやる気が失せるな」
 千石がなんだかよくわからないおかしな悲鳴をあげた。ラケットを持つために守り通したきれいなままの右手がぎゅうと跡部を抱きしめたが、そんなものはいらない。ぼろぼろの醜い左手をこそはやくひらいて、俺を求めろ。

 

 

 

きみはすごい
07.3.26

 

 考えれば考えるほど絶望的なので、考えるのをやめてみました。
 夜明け、急に思い立って携帯をリダイヤル、「おれは本当にきみが好きなんだ、愛してるって言い換えてもいい。愛してるなんて言葉おれはドラマの中でしか聞いたことがなくて個人的にはすごく安っぽいような気がしてる、だから現実味もないしこんな言葉を最後にするのはいやなんだけど、ほかになんにも浮かばないのでもう一度言います、おれはきみを愛している」、一方的に言い募り電話を切って電源も切って布団の奥に逃げ込んで、そして千石は考えることをやめた。
 すると頭がすごく楽になった、考えないことがこんなに負担を減らすなんて!
 しかし不覚(ではなく未練?)(いやいやそんなはずは)、情報の削除を忘れていました、と翌朝、登校途中の横断歩道でおそるおそる携帯の電源を入れた途端におそろしい精確さで鳴った、着信、跡部景吾。
「ひいっ!」
 本気の悲鳴をあげて携帯を取り落としそうになった千石を、偶然隣で信号待ちをしていたかわいいと評判の下級生が不審げにチラと窺い、一歩距離を置いた。ああ人気者のキヨ先輩としたことが「やだきもーい」て目で見られちゃったよ沽券にかかわる、とか後悔する余裕はあったけれど、未練がましい上に根性も覚悟もない千石には、着信を無視するという選択肢はもちろんない。
「も、」
『よう千石清純いい朝だな。いいかよく聞け、最後にしてえなら愛していたと言え、愛してるなんてほざきやがって不愉快極まりねえんだよこの馬鹿が。てめえの言葉の安っぽさを自覚してるところだけは褒めてやるぜ、この生粋の馬鹿が!』
 跡部の声は普段より若干大きかったが冷静だった。用件はそれだけとばかりに電話は切れ、青に変わった信号の下で千石は立ち尽くす。
(愛していた?)
 楽になった頭で考えた。いま自分にできることはひとつだけ、言うことを聞きそうにない足を引きずって歩き出すより、考えないことより、よっぽど簡単。リダイヤル。
「跡部くん?」
『てめえが生粋の意味を知らねえほうに、キス一回賭ける』
「生粋はね、混じりけがまったくないこと」
 チッ、と返ってくる邪険な舌打ち。
「跡部くん」
『なんだ』
「おれはきみを愛してる」
 電話の向こうで勝ち誇った笑い声が起きた。まったくもって負けた、と千石は思った。
 もう考えないと決めたんだ。きみとの未来のことを。何もかもが不透明である一点のみが強烈に鮮明で、月の明るい真夜中の海でひとり泳ぎ続けるようにおそろしかった。永遠に陸はなく、足はつかず、身体の芯まで寒い。
 笑い声を残して電話はまた切れた。青信号の点滅する横断歩道を走り出しながら、千石は考える。ここはどこまでも陸であり、足は力強く地面を蹴り、彼が笑えばおれは細胞の隅々までぽかぽかとあたたかい。
 おかしいな、絶望という言葉の意味が、わからなくなってきた。

 

 

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